涙をこえて。
佳子「あと、23年ってまだまだ甘いのよ。
織井茂子さんとか、高橋真梨子さんは、
紅白歌合戦に返り咲くまで、29年かかったんだからね」
織井さんは、NHKのラジオドラマ「君の名は」の
主題歌のレコードを出した女性だ。
なかなかめぐり合えない恋仲の男女のストーリーが空前の人気を博した。
僕 「ああ、そういえば、あみんは25年ぶりの返り咲きでしたね」
佳子「そうそう。返り咲く前も後も、歌った歌は?」
2人「せーの、」
「待つわー」
あまりにも細かい知識から生まれる、しょうもないユニゾンを、
しかもバスの中でしてしまう、アラフォー男女。
まったく世の中の大勢に影響はないが、
でも、これがまさに正しい変態だと思う。
きっと誰にも迷惑をかけていないし、本人たちは楽しいのだから、
それが一番幸せだろう。
僕は、言い知れぬ幸せを感じていた。
バスはきょうも、ぐいぐいと急な山道を登り、やがて峠のてっぺんに着き、
僕たちはバスを降りた。
1回目の往路ほどではなかったが、風はまだ冷たかった。
道路の端にある温度を示す電光掲示板には「0℃」と表示されていた。
佳子「氷点下じゃないだけ、まだましよね」
佳子さんは、強く冷たい風に黒髪をなびかせながら、僕に話しかけた。
僕 「いえ、氷点下ですよ」
佳子「え、だって0度じゃない」
僕 「0度は、氷点下なんですよ、実は」
佳子「え、そうなの?」
僕 「そうです。氷点って、
氷が水になる温度ですけど、0.002519度なんです。
だから、0度は氷点よりわずかに下で、氷の温度なんです」
佳子「そうなんだ、知らなかった!」
僕 「実は僕も、予報士になってからこのことを知って、びっくりしました。
大人になっても学ぶことって、多いですよね」
佳子「ほんとに。また、ワンコちゃんから、教わっちゃった!」
そんなに大した話ではないのに、佳子さんは、うれしそうだった。
佳子さんを見ていると、人間はつくづく、
新たな発見とか、新しい見方ができることが大事なんだなと、僕は思った。
やがてホテルのガラス張りの玄関が見えた。
そろいの半纏を着た、ホテルの従業員が男性5人、女性5人。
ずらりと10人。玄関の前に並んでいる。
1回目の往路と、まったく同じだ。
「おつかれさまでございますーっ」
これも同じだ。
すかさず、佳子さんが僕に耳打ちする。
佳子「じゃ、ここからワンコちゃんは、彼氏ね」
僕 「うん」
宿での彼氏役も、なんだか慣れてきたような気がする。
玄関を入ると、じじが待っていた。
じじ「おう、よく来たの」
佳子「おじさま、またお世話になります」
おじさま、と言いつつ、実の父親なんだ。
僕はそのことを知ってしまった。
佳子さんは健気におじさまと言っている。
なんだか切ない。
じじ「おう、石井君」
僕 「あ、ご無沙汰しております」
じじ「もう、自分の家だと思って使ってくれていいんじゃよ」
僕 「はい。ありがとうございます」
佳子さんと僕は、また、ホテルの一番てっぺんの展望室に通された。
ホテルの人たちが丁寧に、お茶だ、お菓子だと出してくれて、
ひとしきり挨拶がすむまで、やはり今回も30分くらいかかった。
しかし、前回この部屋に来たときと違ったのは
その間、僕はかなりゆったりとした心持ちでいられた。
心細い足軽ではなくなっていた。いろいろ、全体像が見えたからだろう。
さて、まずは硫黄泉か。
僕がそんなふうに思っていたが、佳子さんは意外なことを言った。
佳子「温泉は、あとね。きょうはまず食事から」
あら、温泉ではないんですか。
でもまあ、人の家に来ているわけだから、
佳子さんの言うとおりにしないと、申し訳ない。
そこで僕は食事に向かう支度をして、鍵と財布とスマホを持った。
一方、佳子さんは、何も持たない。
あれ、先日は名刺入れのような何かのケースだけ持っていたけど、
それもないのか。
僕は念のため、聞いた。
僕 「佳子さん、何も持っていかなくて、いいの?」
佳子「うん、いいの」
僕は佳子さんがいいと言ったので、それ以上は気にしなかった。
前回と同じように、薄暗い廊下を歩き、
スリッパをパタパタさせて広間に近づくと、
まるで自動ドアであるかのように、広間の入り口のふすまが開いた。
いいタイミングで開けるなあ。
きょうもさすが大観光。
中に入ると、30畳ほどのだだっ広い広間に
お膳が3つだけ、並べられていた。
これも前回と同じだった。ほどなくして、じじが入ってきた。
じじ「おう、待たせたな」
僕 「いえ、今来たばかりです」
じじ「どうじゃ、仲良くしとるか?」
じじはまた、直球を投げてきた。恒例だ。
すかさず、佳子さんが返した。
佳子「はい。仲良くさせていただきます」
前回と同じような答えをして、話は終わった。
あれ?「いただきます」ってなんだ?
「いただいています」だったらわかるけど、なんで未来形?
僕は少し気になったが、
じじが返事をする前に、すぐに食事が運ばれてきた。
それを見て、少し驚いた。山芋料理ばかりだっだ。
オクラ入りのとろろ汁、山芋のたたきの磯辺和え、
水菜と納豆と山芋のサラダ、山芋の豆乳シチュー、山芋のそぼろ煮。
そして大きなどんぶりに並々と山芋がすられていた。
じじ「きょうは箱根名物・山芋フェアじゃからな、存分に食べてな」
こういう、ひとつの食材にこだわった夕食も出しているのか。
僕は遠慮なくいただいた。佳子さんももりもり食べていた。
ひとしきり食べた後、じじは、少し酒を口に含ませてから、口を開いた。
じじ「そういえば、石井君は、気象予報士じゃが、
大学では、何を勉強していた?」
僕 「あの、法律です」
じじ「法律?すると法学部か」
僕 「はい」
じじ「法学部を出て、気象予報士になるとは珍しいのう」
僕 「ま、それほど珍しいわけではないですが、少ないですね」
じじ「どうして文系を出て、予報士になろうと思ったんじゃ?」
僕 「分野が違うことをやってみたかったから、です」
じじ「分野が、違うこと?」
僕 「はい。法学部を出て、弁護士になったり、検事になったり、
金融の仕事で法律の知識を生かしたりするっていうのも
あると思うんですけど、
全然違う分野で、法律の勉強で得たものを
生かせないかって考えたんです」
じじ「具体的に、何か役に立ったことは、あるか?」
僕 「はい。気象の世界は、気象業務法とか災害対策基本法とか、
案外法律が多いですし、
予報を一般の人に伝えるためには、わかりやすく、
伝えないといけないんですけど、
そのときに、法律を一般の人に伝えるやり方が、役に立っています」
じじ「なるほどな。異世界で、自分の分野を生かしておるわけだな」
僕 「いえ、まだ道半ばです」
じじ「そんなことはないぞ。石井君は立派にいろいろ話せておる。
佳っちゃんは、ほんとにいい男を見つけてきおったなあ」
佳子「いいでしょう」
じじ「うむ。佳っちゃんも、異世界だからな。よろしく頼むよ」