涙をこえて。
今の自分や世の中を支えてくれている。ずっと黙りながらですけど。
そんな構造に、僕は今回始めて気づきました」
佳子「そうね。縁、大事ね」
すると、車内販売が近づいてきた。
販売員の女性がワゴンを押してきた。
佳子「すみません、オレンジジュース2つ」
あ、また佳子さんがオレンジジュースを頼んでくれた。
佳子「せっかくのご縁ですので、
石井さんの分も注文させていただきました。」
1回目の往路と、同じ台詞を言ってくれた。このご縁、いいご縁ですか。
僕はよほど聞きたくなった。
しかし、佳子さんは、まったく別の話題に切り換えた。
佳子「ワンコちゃん、実はね」
僕 「はい」
佳子さんは、ちらりと僕を見て、言った。
佳子「あたしも、養子なんだ」
え、初めて聞きました。これ、重要な話ですよね。なぜ今?
僕がそう思うと、佳子さんは続きを話した。
佳子「大観光の社長のところにも、ずっと子供ができなくて、
世継ぎがいなかったのよね。
それで、あたしは社長の弟の家で生まれたんだけど、
小さいときに、社長の家に養子に出されたの」
僕 「そうだったんですか」
僕はそう言ってから、気づいた。
僕 「そしたら、あの、じじ、おじさんが、
佳子さんの本当のお父さんなんですか?」
佳子「そう。実はね。
でもね、あたしもワンコちゃんと同じように
赤ちゃんのころにもらわれていったから、
あたしは知らないことになっているの。いまだにね。
でも、あたしはパパとの間に何か違和感を感じてて、
それで、大人になってから雑誌の仕事で役所に行ったときに
戸籍謄本を見て、事実を知ったのよね。
今だったら『妊娠しました』とか
みんなツイッターとかで発信しちゃうから
こんなことできないけど、
昔は妊娠とか出産とかの情報ってそんなに出回らなかったから、
あまり知られることもなく、できたみたいなのよね」
そうか、それでじじは佳子さんに早く結婚しろとか
そのほかセクハラチックな発言もするわけか。
でも、本心では、それは早く孫の顔が見たい、ということなのか。
僕 「でも、じじが本当のお父さんだって、
知ってて言えないのって、つらくないですか」
佳子「そりゃ、つらいわよ。
でも、それを言っても仕方ないの。
そういう設定で生きているんだもん」
僕は、佳子さんの人に言えない寂しさを、初めて知った。
僕 「そうだったんですか」
佳子「そう。しかも、私が養子が来てしばらくして社長の家に
男の子が続けて生まれてね。
あたしは結構疎まれたの。
大観光は、弟たちの誰かが継ぐって決まったのよね。
でも、弟たちが大人になってからは
大観光を継ぐのがいやだって言ったから
話はややこしくなって、結局あたしが継がないか、
みたいな話になったのね。
でも、何をいまさらって感じだから、今も断ってるのよ」
それもまたつらい話だ。
養子に来たとたんに、実子ができて、疎まれて、
でも、実子が継がないとわかったら、継いでくれと言われ、断る。
佳子さんの人生は、このかわいらしい顔とは裏腹に、
とんでもない運命を背負っている、と感じた。
と同時に、もうひとつ、気づいたことがあった。
僕 「あの、佳子さん」
佳子「なあに」
僕 「あの、ひょっとして、
佳子さんは、自分が養子でつらい思いをしたから、
今回、同じ養子の僕のことを守ろうとしてくれたんですか」
佳子「うん、それはね。そうなの。そう、すごくある」
僕 「やっぱり、そうだったんですか」
佳子「うん。これも縁だと思うよ。
同じ境遇のワンコちゃんを助けたいって思ったのよね」
そして、佳子さんは、なつかしい一言を言った。
佳子「私がなんとかしてあげるからって、思ったの。」
僕が代々木の予備校で、早稲田を目指していたときに、
佳子さんがかけてくれた言葉と、同じ言葉だった。
その言葉を、20年以上たって、また言ってもらえた。
しかも、違う状況で。
まさに、これが縁だと思った。
僕は、佳子さんに、心から感謝していた。
オレンジジュースを飲み終え、一息つくと、
ロマンスカーは相模大橋のあたりを通過していた。
前回、寒々としていた桜の木は、少しばかり、色づき始めていた。
それは、孤独だった僕の心が色づくのに似ているような気がした。
第1回の芥川賞を受賞した石川達三の「私ひとりの私」の中に、
「私を知っているものは私だけで、
人間は他人から完全に理解されるということはありえない」
というようなくだりがあった。
確かに、完全に理解されることはないだろうし、
理解してくれたところで、孤独が消えるわけでもない。
でも、それは仕方のないことで、
理解したり共有したりできる、
縁がある人と一緒にいるのがよりましなのではないか。
僕はそんなふうに思い始めていた。
ロマンスカーは、無事に箱根湯本に到着した。
1回目の往路と同じように、僕は行き先を確かめて、
バスに間違いなく乗った。
佳子 「ガイドさんがいると、助かります」
僕 「いえいえ」
これも前回と同じやりとりだ。
でも、前回と同じだけど、前回とちょっと違って、
僕を小バカにするのではなく、
本当に頼っているような言い方だったので、
僕はちょっと自分が成長したような気がした。
バスはほどなくして出発した。
しばらく進むと、また、車窓から硫黄の薫りが漂ってきた。
この薫りに「おかえり」と言ってもらえたような気がした。
そして僕は、少し鼻をひくつかせると、
隣の席に座っている佳子さんから漂うあの薫りも、感じることができた。
この薫りが、僕の昔からの楽しみだ。
でも、もうひとつの上の薫りを、僕は知ってしまった。
佳子さんが宿の洗面所で具合が悪くなり、
支えたときに感じた、あの薫りだ。
その香りにも、また会えるかな。僕は少し期待していた。
どうせ、緊張するくせに。
すると、佳子さんは、にやついた僕の顔を見逃さずに、言った。
佳子「こらっ、変なこと考えちゃいけないんだよ」
また怒られた。
どうして佳子さんは僕の考えていることをわかるのだろう。
僕はやっぱり佳子さんの掌の上に乗る狛犬なんだな。
そう思っていると、佳子さんはぽつりと小さな声で、追加の一言を言った。
佳子「ここではね。」
ん?ここではね?
じゃあ、どこだったらいいんですか!
僕はまたドキドキしていた。
すると今度は、また違う話を佳子さんは始めた。
佳子「あたしたち、23年ぶりに再会したんだよね」
僕 「はい。そうです」
佳子「長かったのかなあ、短かったのかなあ」
僕 「僕は長かったと思いますけど」
佳子「そうかな。そりゃあ、これから23年っていうと
すごく長いような気がするけど、過ぎた23年っていうのは
案外あっという間のような気がするのよね」
僕 「そうか、そうですね」