涙をこえて。
それに、第三者は、自分と他人の差について、
あまり、というか全然気にしていないし」
佳子「そっか」
僕 「僕は、一番いいのは、自分がどれだけ力を伸ばしたかを 気にすることだと思うな。
他人を上回ることにも意味はあるけど、自分を上回ることに、
もっと大きな意味があるんじゃないかな。
目指すのは、自己最高記録なんだよね、僕はいつもそう」
佳子「そうなの?」
僕 「うん。それに、自己最高記録をコツコツ、マニアックなくらい
コツコツ更新していくと、結果的に、ほかの人を上回るんだよね」
佳子「ああ、そうかも」
僕 「それに、昨日の続きの今日ではなくてね、明日に続く今日にしないと」
佳子「うん」
僕 「天気予報はいつも、明日があるから」
佳子「あ、明日があるさ、だね」
佳子さんは、昭和の名曲の題名をつぶやいた。
これも、あの「涙をこえて」を作った中村八大先生の作曲だ。
つくづく、縁のあるものが出てくる。おかしなくらいに。
僕 「じゃあ、また横になろうか」
佳子「うん」
僕たちはようやく、洗面所を後にした。
洗面所はすっかり冷え切り、板の間の廊下はさらに冷え切っていた。
僕たちは元日の郵便受けに年賀状をとりに行く人のように、いそいそと歩いた。
部屋に着き、僕たちはまた分厚い布団にもぐりこんだ。
それはまるで、築地市場のラーメンの厚切りチャーシューの下に、
もやしのような具がもぐりこむような感じだった。
佳子「ねえ」
僕 「うん」
もやしたちの会話が、また始まった。
佳子「また、ワンコちゃんに教わったね」
僕 「そんな、大したことないよ」
僕の謙遜は、いつも「大したことないよ」になってしまう。
もっとバリエーションを増やさないと。そう思っていると、佳子さんは続けた。
佳子「なんだか、涙が出ちゃうんだよね」
僕 「なんで?」
佳子「あたし、全部キメキメじゃないと、安心できないんだよね。
風貌とか、構成とか、展開とか、段取りとか。
だから、すっぴんだと不安になるし、他人より劣っているような気がするし。
でも、さっき『自己最高記録』って聞いて、ああ、わかったなって感じ」
僕 「ふうん。構成とか、展開とか、段取りとかも?」
佳子「うん。あたしそういうキメキメ構成とかバッチリやりたくて
雑誌の編集やったんだけど、いっくらやっても、終わんないのよね」
僕 「そうだね」
佳子「いっつもそれで時間だけが過ぎて行って、なんでだろって思ってたんだ」
僕 「そりゃ、時間はいくらあっても足りないよ」
佳子「どうして?」
僕 「だって、あそこを直すと、今度はここが見つかる。
あそこを直したことで、ここに影響が出る、みたいなのの繰り返しだよね」
佳子「うん」
僕 「それに、いま思いついたことを、次の瞬間に忘れたり、
いまできたことが、1時間後にできなくなったりするじゃない」
佳子「あるある。なんでなのって感じ」
僕 「でも、人間ってそうできているから、
むしろそれって当然じゃないかと思うんだよね」
佳子「そっか」
僕 「だって、生きているんだもの。
できないことができるようになることもあるけど、
できることができなくなることだって、同じくらいあるんだよ、きっと。
常に最高の状態を保つなんて、なかなかできない」
佳子「うーん」
「できれば、たくさん持っていたいけどね」
僕 「そう?そんなにたくさん持ち続けなくても、いいんじゃない?
だって、全部持っていても、全部同時に使うわけじゃないんだし。
使うときにあればいい、と考えた方がいいんだよね」
佳子「そっか」
僕 「それに、佳子さん、
お金をたくさん持っていてもしょうがないっていっていたじゃん。
それと同じだよ」
佳子「そっか」
僕 「だから、涙を流してもいいけど、
ないことばかりに探すと、涙あふれちゃうよね。
あるものを探していかないとね。
あるものを必死で探して、
見つかって涙するんだったら、いいんじゃないかな。
そしたら、その涙は意味があるし、
涙をこえた先に、プラスがあると思うんだ。
そういうプラスを探すために、涙を流すのはいいんじゃ ないかな」
佳子「うん」
佳子さんは、そう言うと、ふっと小さく息をついた。
佳子「あたしも、涙をこえたいな。」
「ワンコちゃんと。」
佳子さん、それってどういう意味ですか。
僕はそれを聞こうと思って佳子さんを見た。
すると、息を飲んだ。
佳子さんは、また目を閉じていた。
柔らかく美しい曲線を描いた、みずみずしい桃色の唇を、僕に向けて、
また、丸く、軽く、わずかにすぼめていた。
でも、僕はまだいけない、と思った。
僕 「まあだ、だよ」
佳子「んふ」
佳子さんは、声にならない声を出した。
僕 「きょうは、やめようね。」
僕は、きょうはまだ、線を引いておかないと、
みわちゃんとのことで混乱しそうだったので、
これ以上進むのはいけない、と思った。
でも「きょうは」という留保をつけた自分は何なんだろう。
そう思っていると、佳子さんがぽつりと言った。
佳子「うん。」
「よく、できました。合格ね。」
合格?
それって何の合格ですか?早稲田大学?
そんなはずないな。それは23年前だ。
もっとすごいところの合格であってほしい。
どこなのか、佳子さんに聞こうとした。
でも、それを聞く前に、
佳子さんは、すうっと息を吐いて、寝ようとしていた。
せっかく佳子さんが寝られるようになったのに、邪魔しちゃいけない。
僕は聞くのを自重して、また、枕の上の頭を半回転させて、
佳子さんと反対側に顔を向けた。
こんなかわいい寝顔を見ながらは、寝られない。
僕も目を閉じて、きょうという一日の反芻を始めた。
反芻する内容は、あまりにもたくさんある。
どこまで反芻できるだろう。
そう思ったが、僕もふいに睡魔に襲われたので、
ここで睡魔にさらわれようと思った。
明日も、ドキドキすることがあるかもしれないから、
ちゃんと寝て、体力蓄えないと。
僕は、明日のデートを前にした高校生のようなことを考えながら、
眠りに落ちた。
朝は、たいそうなカラスの鳴き声から始まった。
本当は、小鳥のさえずりくらいがちょうどよいのだろうけど、
峠の上までやってくる勇ましい鳥は、
カラスくらいしかいないらしい。
カラスというのは不思議な鳥で、
頭がよく、目がよく、物おじしない。
人が近づいていっても、平然としているカラスが多い。
カラスのように生きていられればいい、と思うこともあるけれど、
そんなカラスは真っ黒だ。
すべての色のペンキをかぶってしまったから、
黒いという話を童話で読んだ。
業を背負わないと、カラスのようには、なれないのか。
黒くならないと、カラスのようには、なれないのか。
カラスたちから、一度じっくりと聞いてみたい。
そんなカラスの大合唱で、僕は目を覚ました。