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涙をこえて。

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僕も、きっと同じように佳子さんのことを見ていたと思う。


ふいに、佳子さんが、目を閉じた。
柔らかく美しい曲線を描いた、みずみずしい桃色の唇を、
僕に向けて、丸く、軽く、わずかにすぼめた。


僕は息を飲んだ。


こんな瞬間が、僕みたいな人間の人生のさなかに、訪れるんだ。
僕は、自分の運のよさが、信じられなかった。
僕は、胸がつぶれそうだった。


しかし、ここでつぶれては男がすたる。僕はすぐに気持ちを切り換えた。
気持ちの切り換えには、5秒かかった。僕にしては、ずいぶん時間がかかった。
だって相手があの佳子さんなんだもん。


そんな思いを抱きながら、
僕は、枕の上に載った頭を、佳子さんさらに近づけた。

その瞬間だった。
僕の目の前で、驚くべきことが起きた。















ぶわっ。

突然、竜巻が現われたような轟音がした。

暗い部屋にとどろいた豪快な音とともに、
佳子さんが、掛け布団をすっぽりとかぶってしまった。


佳子「ダアー、シャリヤス!」


僕はすぐにわかった。

僕 「ドア、閉まっちゃったの?」
佳子「えへ、わかった?」
僕 「だって、『ダアー、シャリヤス』でしょ。もう発車してください」
佳子「えへ」


少し説明すると、
佳子さんの言った「ダアー、シャリヤス!」というのは、
京浜急行の電車が出発するときに、ホームにいる駅員さんや車掌さんが
「ドアが閉まります」
という言葉を崩して言うときの言葉、とされているものだ。

実際には、こんなやくざな言い方はしないのだが、
京急の雰囲気にこの言葉がよく合うため、
鉄道ファンの間では「ダアー、シャリヤス!」と言うと、
それは京急の電車が出発するときのこと、ということで通っている。

鉄道好きで、しかも京急沿線に住んでいた佳子さんは、
おそらくこの言葉が好きなのだろう。
小田急沿線の僕には、実感がわかない話だが、
僕も鉄道は好きなので、これくらいの話は知っている。


佳子「ワンコちゃん、京急知らないのに、よく知ってるね」
僕 「たまたまだよ」


僕がややあきれてそう言うと、心に刺さる鋭い返事が返ってきた。



佳子「その、たまたまが、好き。」



ええ。佳子さん、なんてうれしいことを言ってくれるんですか。
うれしいなあ。うれしいなあ。
僕はもう少し、布団をかぶった佳子さんに近づこうとした。

すると佳子さんは、その雰囲気を察知したようだった。


佳子「だーめ。きょうはもう『ダアー、シャリヤス!』なのっ」


布団の中から、こもったような声で、
今夜の佳子さんのドアが閉まったことが告げられた。



惜しいなあ。僕は残念がった。
佳子さん、本当にいつも場面を作るなあ。
もしかして、これも、物語のためのセッティングなのか?

一瞬、そんなことを考えたが、
せっかくいい雰囲気になったのにそう考えるのもよくない、と思ったし、
この物語に参加させてもらっていることへの喜びもあったので、
そう考えるのは、すぐにやめた。

それにしても、佳子さんは、
この物語をどこに持っていこうとしているだろう。

もちろん、ハッピーエンドになってほしいという気持ちはあるが、
それより何より、
僕はいつまでもこの物語に参加していたいと思い始めていた。

こんな緊張感あふれて、場面があって、胸が躍り、時々落胆もするけれど、
でも少しずつ前に進んでいるような気がする物語って、
なかなかないような気がする。

マイナスだらけだと思っていた僕の世界に、プラスの要素が舞い込んできた。

そして、この物語への参加は面倒だけれども、面倒でないときよりも、
心地よい自分がいることを僕は見つけていた。

佳子さん、お願いだから、物語をまだやめないでね。
僕はそう願いながら、枕に載った頭の位置を、もとの位置に戻した。












暗闇の中、僕ははっと目覚めた。
きっと、いつの間にか寝てしまったのだろう。
いま、何時かな。僕は時計を見ようと、体を入れ替え、
佳子さんの方を向いた。

僕 「あれ?」

見ると、佳子さんの布団は大きくはがされ、佳子さんはいなくなっていた。
起きるには、早すぎる。どこに行ったのだろう。僕は、心配になった。
僕も布団を大きくはがし、佳子さんを探しに行こうとした。
でも、どこに探しに行けばいいのかわからない。

布団をはがした後、耳を澄ますと、
「うー、うー」というわずかなうめき声が聞こえた。

佳子さんは、どこにいるのか。僕は、とりあえず立ち上がった。
部屋の中にある板の間の廊下に出て、奥に進み、洗面所のドアが近づいてきた。
うめき声はそこから聞こえていた。
僕は迷わずドアを開けた。

すると、床に這いつくばるようにして、浴衣の少し乱れた佳子さんがいた。

僕「佳子さん!」「大丈夫?」

僕は急いで声をかけた。
しかし、佳子さんは、「うー、うー」と言ったままだった。
目には涙が浮かんでいた。僕は、佳子さんを抱きかかえた。

僕「佳子さん!」「佳子さん!」

佳子さんは、吐きそうになっていた。
佳子さんは「うっ」と言ってえづいた。

僕「鼻で、息して。すーっと」

僕は思わずそう言った。
僕も、予報が外れたとき、たくさんのお客さんの前に立ったとき、
大きな決断をするときに、急に吐き気を催すことがある。 

そんなとき、坂の上テレビの先輩が教えてくれたのが
「鼻からすーっと息を吸う、ゆっくり息を吐く」
という方法だった。

先輩によると、これは自律神経に働きかける方法だ。
自律神経とは、無意識のうちに働いている神経のことで、
内臓も自律神経で動いている。自分の意識で動かすことはできない。

その自律神経に働きかけられる動作が、呼吸だという。

特に鼻から呼吸をすると、深く息を吸ったり吐いたりできるので、
自律神経が落ち着く、というような話だった。

佳子さんは、食あたりではなさそうだったので、
僕はこの方法を勧めた。

佳子「そうね。ワンコちゃん、あ、ありがとう」

佳子さんはそう言うと、鼻で大きく息をし出した。
掃除機のように息を吸い込み、ファンのように息を吐き出した。

佳子「はあ」「うう」

少し落ち着いたが、まだ軽くえづいている。
僕は部屋に戻って、大きな魔法瓶にあった冷水を湯のみにくんで、
また洗面所に戻ってきた。

僕 「飲んで」
佳子「うん」

佳子さんは、湯のみを抱えるようにして、飲み干した。
そこでまた、鼻から大きく息を吐き出した。

そういえば、風呂上がりに
佳子さんのスマホのカバーを開けてみてしまったとき、
「もっと 鼻息」と書いてあったのは、この吐き気対策のためだったのか。
僕は推測した。

スマホにわざわざ書いておくくらいだから、相当意識しないとできないのだろう。
あるいは、よほど吐き気が来るのが怖いのかもしれない。
僕は佳子さんの苦しさを慮っていた。

佳子「ごめんね、ワンコちゃん」
僕 「ううん」
  「落ち着いてよかった」
佳子「ごめんね」
僕 「ううん、僕もなるから」
佳子「ワンコちゃんも、なるの?」
僕 「うん、緊張したときとかね」
佳子「そうなの?」
僕 「うん」
作品名:涙をこえて。 作家名:石井寿