涙をこえて。
僕はもはや、佳子さんのペットのようなものだった。
そうか。だから、僕をワンコと名づけたんだな。
しかし、僕はペットで十分だった。これ以上、複雑なことを考えずに、
このまま佳子さんのそばに寄り添っていられれば、心地いい。
僕は今までにない感情を持ち始めていた。
そんなことを考えているうちに、佳子さんは風呂から持ってきた洋服などを
スペードのマークのついたバッグにしまいこんでいた。
「ねえ」
佳子さんがこちらを見ずに話しかけてきた。
僕 「うん?」
佳子 「これからもう晩ご飯だからね。ワンコちゃんも支度して」
そうか、少し早い晩ご飯なんだな。
やっぱり、この部屋に運び込まれてくるのかな。
僕がそう考えていると、佳子さんがすぐに
「ご飯は別の部屋だからね。鍵と大事なものだけ持っていって」
と言った。
僕は軽くうなずいて、鍵と財布とスマホを持った。
ふと、佳子さんを見ると、
名刺入れのような何かのケースだけ持っていこうとしていた。
僕 「あの、お財布とかは」
佳子「別に、いいの」
僕 「スマホ、持って行かないと」
佳子「それもいいの」
佳子さん、ずいぶん変わっているな、とそのときの僕は思った。
財布もスマホもいらないのか。
ま、このホテルは佳子さんの実家みたいなもんだし、
そういえばほかのお客さんの姿も見ないから、
財布やスマホが盗まれる可能性はほとんどないのだろうけど、
それにしても財布とスマホがないと
僕なんかは心細くてしょうがない。
金も情報もないわけだから。
佳子さん、ずいぶん大胆だな。裸で過ごすようなもんじゃないか。
そのときの僕は、そう思った。
でも、ペット扱いの僕が、
飼い主様にそんなことを申し上げるのは失礼だろう。
僕はそう思ったので、
持ち物がほとんどないことには触れずに、部屋を出た。
僕 「ご飯の場所って」
佳子「あの広間よ」
見ると、部屋からずっとまっすぐ行った先に広間があった。
薄暗い廊下を歩き、スリッパをパタパタさせて広間に近づくと、
まるで自動ドアであるかのように、広間の入り口のふすまが開いた。
いいタイミングで開けるなあ。さすが大観光。
僕は感心しながら、ふすまの中の明るみに入った。
すると、30畳ほどのだだっ広い広間にお膳が3つだけ、並べられていた。
僕 「うわ、3つだけ」
佳子「うん。うちらだけだからね」
佳子さんがそう言うと、支配人のじじ、
つまり、佳子さんのおじさんが現われた。
じじ「こりゃどうも。石井くん、お湯加減はどうじゃった」
僕 「はい。最初ぬるかったですけど、ちょうどよくなりました」
「佳子さんが、湯守さんを差し向けてくれたので」
じじ「おお、湯守が」
「佳っちゃん、気がきいとるね」
「それだけ2人の仲がよいということかな」
じじは、うれしそうに僕の顔を見やった。
僕 「あの、いえ、僕たちはまだ」
僕はさすがに恥ずかしくなって、ちょっと否定に走った。
じじ「まあまあ、恥ずかしがらんでもええんじゃよ。
そういう少しずつの気遣いや思いやりがあって、
仲良くなっていくもんじゃからのう。」
じじは、ちょっとうれしいことを言ってくれた。
でも、それに有頂天になると硫黄泉に入っているわけではないのに
またノボせてしまいそうだったので僕はあわてて話題を変えた。
僕 「あの、僕、いつもここに来ると料理楽しみにしてるんです」
じじ「おお、そうじゃ。腹がへっておるのじゃろ。
すぐに始めようか」
じじはそう言って、仲居さんに食事の準備を始めるよう促した。
どんなご馳走が出るのかな。
普段僕が下のレストランで食べているバンキングとは違うんだろうな。
僕は少し期待した。
ところが、案外普通の食事だった。
相模湾で取れた魚の刺身、しいたけの甘辛煮、
きゃらぶきの佃煮、牛肉の時雨煮、白いご飯。
いつもここに来たときに、
バイキングで食べている食事となんら変わらなかった。
前社長の娘であっても、別に特別扱いしないんだな。
そう思っていたところ、少し大きめのどんぶりが来た。
締めの蕎麦には早すぎるな、と思ってみたところ、
どんぶりには、とうとうと盛られた、
すりおろしの山芋が揺れていた。
確かに、箱根は山芋が有名だが、ずいぶんたくさんだな。
僕がそう思っていると、じじが一言。
「ま、これで元気をつけて、早く跡継ぎを、な」
なんて、直截な一言。
すると、僕が恥ずかしくなる前に、佳子さんがたまりかねて
「ちょっと!おじさま!恥ずかしいじゃない!」
と桜色に染まった首筋の稜線をさらに赤くして、抗った。
するとじじは、
「あれ、ちょっと気が早かったかの」と言い、照れ笑いを浮かべた。
昔の人はずいぶん直截だ。今だったら、確実にハラスメントだな。
でも、ふと考えてみた。
じじは、僕と佳子さんが一緒になることを考えているってことか。
ええ。
それって、恐れ多すぎる。
だって、佳子さんは、僕にとっては神様みたいなものだし、
やっぱり近くにいると緊張する。
もちろん、昔は大好きだったけど、
それは、出会いの少ない世間知らずの男子校の高校生が
かわくて親切な女の子に見惚れたのに、過ぎない。
アイドルを好きになるのに近い感覚だったのだろう。
最近になって、佳子さんもその当時僕のことを好きだったって、
言ってくれたけど、
それは、子供同士の恋心の話で、今は時代が違う。
しかも、大観光のご令嬢で、
僕なんかが話すのは恐れ多い人だということもわかってしまった。
ますます近寄りがたい。
とりあえずきょうは佳子さんのイヌとして参加しているけど、
きょうが終わったら、またなんでもないんだから。
あと、ついでに言えば、うちにはみわちゃんいるし。
あ、みわちゃん、実家で今頃何をしているんだろう。
僕は少しだけ、みわちゃんのことまで思いを馳せた。
こんなことを考えていると、僕の顔は遠くを向いていたらしい。
それを察知した佳子さんは、援軍を求めるかのように言った。
佳子「ねえねえ、男性からしても、今のは失礼だよね」
僕 「あ、いえ、はい、そうですね」
佳子「でしょー、おじさま、うちの彼氏様に失礼なのよ」
じじ「はは」
佳子「彼に聞くことってほかにあるでしょ」
じじ「おお、そういえば、石井君は、どんなお仕事じゃったかな」
急に仕事の話を振られた。
僕 「はい。坂の上テレビで天気予報の仕事をしています」
じじ「天気予報。予報官かの」
僕 「いえ、あのう、予報官ではなくて予報士です」
じじ「予報士」
僕 「はい」
じじ「この箱根は天気が変わりやすくてなあ。天気予報は大事でな」
僕 「はい」
じじ「明日はどうかな」
僕 「はい。はじめ雲が広がりやすいと思いますが、そのうち晴れてくると思います」
じじ「おう、それはよかった」
そういって、おじさんはコップ酒をがぶりと飲んだ。
じじ「あんた方の人生も、そうであると、いいな」
おじさんは、なんだか意味深なことを言った。
おじさんは、何が言いたいのだろう。
僕にはわからなかった。
すると、佳子さんがまた話題を変えた。