小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

涙をこえて。

INDEX|14ページ/46ページ|

次のページ前のページ
 

第一応援歌「紺碧の空」に比べると、圧倒的に知名度は低い。

でも、僕は、すばらしき青春、またとないこの日のために、
稲穂は揺れる、友よ燃えろ、力の限り燃えろ、という
前向きな歌詞が好きだった。

詞を書いたのは、ビートルズにとっても詳しい、大学の先輩だ。
昭和57年にできたこの歌は、昭和がまだまだよく薫る。

僕が大学に入ったのはまだ平成になったばかりのころだったためか、
歌詞に書いたような熱さがまだ少しキャンパスに居残っていて、
この昭和の熱い歌は、僕の心にひっかかった。

しかも、作曲は「涙をこえて」と同じ
早稲田の大先輩・中村八大先生だ。
八大先生の明るさと昭和のジャズの生き生きとした薫りが、
この歌には吹き込まれている。

僕はそれと同時に、
佳子さんの中にも、昭和が確実に生きているんだ、と
少し思った。


佳子「じゃ、温泉行こうか」
僕 「うん」

僕はいそいそと支度をし、佳子さんと1階にある温泉に向かった。

温泉の大きなのれんの前に着くと、佳子さんがいつの間にか
黒髪をゴムでまとめていることに気付いた。

佳子さんは透き通るような白いうなじをちらりと見せたあと、振り返った。


佳子「何時、どこ集合?」
僕 「じゃ、5時半に、部屋集合で」
佳子「うん」
僕 「僕の方が、早く上がるから、待ってるね」
佳子「ありがと」
僕 「じゃ」

僕は少し、赤くなっていた。
あの、僕の神様みたいな佳子さんと温泉だって。
しかも、恋人のふりだって。
こんな展開、一生に一度あるかないかかもな。
だったら、ワンコでいいや。
僕はそう少しにやけながら、脱衣場に向かった。
    
ここは内湯が普通の風呂で、露天のみが硫黄泉になっている。

ここの硫黄泉は強力なため、内湯を硫黄泉にしてしまうと、
どんなに強力な換気扇をつけても換気が行き届かず、倒れる人が出るという。

そのため、換気のいらない露天のみが、ここでは硫黄泉になっている。
僕はもちろん、露天の硫黄泉に向かった。まだ早い時間のためか、誰もいない。

僕は硫黄泉が流れ続けてすっかり白く変色した湧出口の岩の近くまで寄った。
硫黄独特のにおいをかぎ、湯に浸かった。
湯は、思いのほか、ぬるかった。きっと、寒いからだろう。

「ふーっ」

僕は大きなため息をついた。
それは、硫黄泉に入れた安堵感であり、
何よりきょうは、佳子さんと思いがけずに一緒に温泉に来て
恋人のふりが出来ると言う特典を得た喜びからくるものだった。

それにしてもなあ。

結婚していないと信じきってきたみわちゃんは、離婚歴があり、
結婚していると信じきっていた佳子さんは、華の独身である。

世の中は本当にわからない。

いや、わからないのではなく、
実は僕がわかろうと努力していなかったからではないか。

断片的な周辺の状況や雰囲気だけでなく、
もっと話をして、きちんと話をして
確かめないといけないことって、実はたくさんあるんじゃないか。

僕は、最近、何かというと、スマホに逃げ込む癖がある。

エレベーターの中の30秒足らずの待ち時間でも
ついスマホをあけてしまう。

最近それにすごく飽きてきているが、でも、絶対にやめられない。
なんて皮肉。なんて矛盾。

そこで僕はふと、昔のことを思い出した。

佳子さんが予備校で僕の隣の席に座って
現代文の勉強をみてくれたときに

「早稲田の現代文ってね、キーワードがあるんだよ。
 皮肉とか、矛盾とか、出てきたら、絶対チェックだからね。
 その、皮肉とか矛盾の対立軸が答えになることが多いからね」

と言ってくれたことがある。


皮肉とか、矛盾とか。


それはまさに、今の僕が包囲されているもの、そのものじゃないか。

飽きているのに、やめられないスマホ。
結婚していると信じきっていたのに、華の独身だった佳子さん。
あ、ついでに、
結婚していないと信じきっていたのに、離婚歴が明るみに出た、みわちゃん。

僕の周りには、皮肉と矛盾がいっぱいだ。

まさか佳子さん、将来のこの日のことを意識して
高校生の僕にそんな知識を僕に教えてくれたわけではないよねえ。

僕は白くもこもことした硫黄泉の湯気を頭に薄くまといながら、
そんなことを考えていた。



するとふいに、はずんだ声がした。

「ワンコ、ちゃーんっ」

高い塀を隔てて聞こえてきた、佳子さんの声だった。
きっと佳子さんも硫黄泉の湯気をまといながら湯に浸かっているのだろう。

「ワオーンッ」

暮れなずむ露天の空を切り裂くようにして、
僕は、犬のように遠吠えを叫んだ。

それを聞いた佳子さんは「アハハハハ」と声を上げて笑い、
してやったりの顔がこちらにも浮かんでくるようだった。

さて、どんな顔か。
あの色白なかわいらしいお顔を少し赤らめていらっしゃるのか。

そんなことを考えていると、
紺の半纏をまとった初老の男性が、内湯と露天を隔てるドアを開け、
露天の近くに入ってきた。

初老「ようこそ、いらっしゃいました」

深々としたおじきをして、男性はあいさつをした。

僕 「お世話になっております」
初老「いま、熱いですか」
僕は「いえ、ぬるいです」
初老「お顔が赤いので、熱いかとお見受けしました」

そこで僕は初めて「顔が赤くなっている」という事態に気づいた。
女湯にいる佳子さんのことを、考えていたからか。恥ずかしい。


初老の男性は「ならば、少し熱くしましょう」と言い、
近くの小さな木戸を開けて、バルブを開いた。

バルブを開いた効果はてきめんで、湧出口のあたりにいた僕の腹に、
いきおいよく熱のこもった温泉が殴りこんできた。

僕 「ありがとうございます」
初老「あまり、興奮なさならないように」
僕 「はあ」
初老「興奮すると、湯あたりをいたしますので」
僕 「ありがとうございます」

僕は気遣いに礼を言った。
その礼に対し、初老の男性は少し相好を崩し、
やや小さめの声で僕に言った。

初老「あのう」
僕 「はい」
初老「お嬢様は、大変に、大変な方です。
   どうか、よろしくお願いいたします」
僕 「はあ」

僕はそれしか言えなかった。
大変に、大変な方ってなんだろう。
僕がそれを聞こうとすると、
初老の男性はきびすを返して立ち去ろうとした。

僕 「あのっ」

僕は、得意技の相手にだけ鋭く聞こえる声で、初老の男性をわしづかみにした。

初老「はい。何か、ございますか。」
僕 「あの、佳子さんって、どんな人ですか」

僕は彼氏の役をもらっているのに、そんな変な質問をしてしまった。

初老「そうでございますね」

初老の男性は、少しもったいつけたようにして、言った。

初老「見かけによらない方、でございます」

見かけに、よらない?僕はよく、わからなかった。 
僕は二の矢の質問をしようとした。

しかし、初老の男性はするりと内湯へと去っていった。

「うーん」

僕は、わからないまま、少し熱くなった湯に浸かっていた。


すると佳子さんが、また高い塀越しに
「ワンコちゃーん、お湯加減は、いかがですかーっ」
と大きな声で尋ねてきた。
作品名:涙をこえて。 作家名:石井寿