涙をこえて。
みんなお金のことばかり。みんな自分のことばかり。
一体なんなのよねえ」
そう言うと、佳子さんは、ため息をついた。
佳子 「お金より大事なものが、あるじゃない。たくさん」
僕 「例えば、何ですか」
佳子 「いまのあたしは、踊って誰かを勇気付けること。
勇気や元気は、お金じゃ買えないものだから、
あたしはとっても大事だと思っているの。
あとは」
なんだか話がずれ始めて来たので、僕は佳子さんに軌道修正を求めた。
僕 「あの、少し話がずれてきたみたいなんですけど、
そもそも、なんできょう、僕が佳子さんにここに連れ込まれたのか、
教えてください」
僕は思わず「連れ込まれた」なんて言ってしまった。
まずい、佳子さんはそんなつもりじゃないのに失礼かな、と思った。
佳子 「あは、連れ込み。ここは連れ込み宿ですか」
僕 「あ、すみません」
僕が謝るのを待っていたかのように、佳子さんは少し微笑んだ。
佳子 「実は、じじに彼氏を連れてくるって前から言っていたの」
僕 「連れてくればいいじゃないですか」
佳子 「いないのよ」
僕 「ええ」
また、驚いた。
こんな色白で若くて美しい金持ちプリンセスなのに、彼氏がいない?
本当かと疑った。
僕 「本当ですか」
佳子 「本当」
僕 「なんでいないんですか」
佳子 「『該当者なし』の状態が続いてたの」
僕 「じゃ、おじさんにいないって言えばいいじゃないですか」
佳子 「いないって言ったら、できるまでここに来るなって言われそうで。
ここの硫黄泉に入れないの、やだから。
それで急きょ、白羽の矢を石井君に立たせていただきました」
はあ。白羽の矢ですか。
つまり、僕は、都合のいいところにいたから、連れ込まれたというわけか。
ん?
でも、なんで都合のいいところに僕がいたのか?
僕 「あの、それにしても、タイミングよすぎないですか」
佳子「だから、ロマンスカーの中で言ったでしょ。
お互い何度もここに来ているんだったら、こんなこともあるって」
僕 「それがおかしいんですよ」
さっき、ロマンスカーでこの話をしたときには
「ロマンスカーでロマンス!」と言われて
僕は少し舞い上がってしまったため、これで話が終わってしまったが、
ここは粘るぞ。僕がそう思うと、次に佳子さんが意外なことを言った。
佳子「ま、あたしは石井くんが今日来るの、実は知ってたけどね」
僕 「え?」
僕が来るのを知っていた?佳子さん、予知能力でもあるんですか。
どんな予知能力なんですか。
そんな僕の神秘的になりそうだった疑問は、次の一言であっさり氷解した。
佳子「この前、あたしがここに来たときに、
宿帳を見たら、今日の日付のところに石井くんの名前があってびっくりしたの。
ああ、ここに来ているんだなあ、この日に来るんだなあって。
それであたしも予定をあわせて来たわけ」
僕 「え、宿帳見ているんですか」
佳子「何か、悪かった?」
僕 「いえ、なんでもないです・・・」
宿泊する人の名簿を第三者が見てはいけない。見せてもいけない。
しかし、佳子さんはここの娘さんなのだから、いけないとは言えないだろう。
そこでたまたま知り合いの名前を見かけた。それに合わせて自分も来た。
それだけのことよ、と佳子さんは言いたそうだった。
僕 「え、じゃあ、ロマンスカーに乗るのも、全部知っていたんですか」
佳子「ロマンスカーに乗ることは想像ついたけど、
何時のに乗るかはわからなかったわ」
僕 「じゃあ、同じロマンスカーで、隣の席になったのは」
佳子「それはほんとに、偶然。驚いちゃった。
私たち、縁があるのかもね」
佳子さんは、そう言って、笑った。
そうか、だからロマンスカーの中で「来てくれたのね」なんて言ったのか。
あれは、寝ぼけていたわけではなくて、
予期しない早い場面の僕の登場を見て、言ったのか。疑問がひとつ解けた。
佳子さんは、本当はホテルで僕を待ち構えて、どこかで合流しようとしたらしい。
それが、少し予定が狂い、こんなことになってしまった、ということのようだ。
佳子「で、お願いなんだけど」
「あたしを助けると思って、きょうは恋人のふり、してくれないかな」
僕 「えー」
「そんな、佳子さんの彼氏のふりなんて、できません」
佳子「なんで」
僕 「だって」
佳子「あたしのこと、好きだった、って言ってくれたじゃない」
僕 「それは、そうですけど」
佳子「あたしも、石井くんのこと、大好きだったんだよ」
代々木のバーガーで言われた、この一言。
また、言われて、僕はそのときのシーンを思い出し、
柄にもなくきゅんとなり、まともな反論ができなくなった。
僕 「はい」
佳子「だから、少し仲良くしてくれればいいから。
じじを一回安心させたら、しばらく場がもつから」
「ね、あたしを助けると思って」
「石井くん、あたしのおかげで早稲田に受かったって言ってたじゃない。
今度はあたしを助けて、ね」
僕に「今度はあたしを助けて」という言葉が突き刺さった。
そうだ、23年前に、僕は佳子さんにものすごくお世話になった。
全部全部、佳子さんのおかげだった。その恩返しだと思えばいいんだな。
僕の釈然としなかった心は、自然と整理がついた。
僕 「わかりました。じゃ、きょうだけ」
佳子「やったあ、ありがとね、石井くん」
僕 「はい」
佳子「あ、『石井くん』じゃ固いかな。なんて呼べばいい?」
僕 「何でもいいですけど」
佳子「そんな、せっかく名前考えてあげるのに。じゃあ、ワンコね」
僕 「ワンコ?」
佳子「そう。あたしの犬、みたいな感じで。ワンコ、いいね!」
ええ、犬ですか。彼氏が犬ですか。
僕はまた釈然としなかったが、
佳子さんがワンコがいい、と言うので、とりあえずワンコと呼ばれることになった。
佳子「じゃ、ワンコちゃん、これからよろしくね」
僕 「はい。よろしくお願いします」
佳子「よろしくお願いしますは、堅苦しいよ」
僕 「どうすればいいんですか」
佳子「敬語はなしで、いいんだよ」
僕 「わかりました」
佳子「ほらまた敬語」
僕 「わかった・・・よ」
佳子「お、よくできました!さすがワンコちゃん」
もう、僕は佳子さんにすっかり遊ばれていた。
まあいいか、あの佳子さんに遊んでもらっているんだから。
それに、一日限定だけど、彼氏を名乗ることができるのだし。
僕は、何かゲームが始まるようで、うれしかった。
佳子「じゃあ、始まりね。
タンタカタンタンタンタンタンタン、タンタカタンタンターン」
僕 「それ、何ですか」
佳子「ほらまた敬語」
僕 「ああ、それ、何?」
佳子「始まりのファンファーレです」
僕 「あ、どこかで聞いたことある曲だなあ」
佳子「早稲田大学の応援歌『いざ青春の生命のしるし』でございます」
僕 「おお」
「なつかしい」
「いざ青春の生命のしるし」というのは、早稲田大学の応援歌のひとつだ。