涙をこえて。
それは、自分のことを守るのに、精一杯の世の中になってしまったからだ。
だから、他人をなかなか見ない。
道行く人も、他人ではなく、自分のスマホばかり見ている。
他人にぶつかっても、スマホを見続ける人もいるくらいだ。
情報は他人が生み出した他人関連のものばかりなのに、
人はみな、情報に右往左往しつつ、結局は自分のことばかり見て、生きている。
他人と自分の間に、絶望的な間が空いている。
そこに、言い知れぬギャップ、そして無常を感じる。
そういうことなのかな、佳子さんが言いたいことの先の方は。
僕は勝手に、佳子さんの説を伸ばして考えていた。
まるで、佳子さんの身の上の天気予報をするように。
でも、せっかく箱根に来たのだから、こんな難しいことを考えるのは
やめた方がいい。僕はすぐ佳子さんに向き直った。
「そうですね。今の方が、なんでも多すぎて、重いですね」
僕はまともだと思われる答えをした。
すると佳子さんは
「そうよね。なんでかなあ」
と嘆いた。
僕はそれに対して、うまい答えを言うことはできなかった。
しかし、都合のよいことに、ちょうど、車窓から
僕たちが求めていた香りが漂ってきたので、助かった。
佳子「あ、硫黄の薫り!」
僕 「そうですね。箱根来たって感じですね!」
僕たちは少し、テンションが上がった。
そして僕は、少し鼻をひくつかせると、隣の席に座っている佳子さんから漂うあの薫りも、
感じることができた。
予備校で隣に座ってもらうのが夢だった佳子さんと、
今一緒に箱根のバスに乗っていて、箱根の硫黄の薫りと一緒に、
佳子さんの薫りも感じられる。
僕は少し、大人の階段を上ったような、幸せを感じていた。
大人の階段なんて、もうとっくに上ったつもりだったのに。
まだ僕にも、上る段があったんだなあ。
あ。
ということは、僕はやっぱり子供だったのか。
僕はみわちゃんや後輩にえらそうにフンフン言っているけど、
実はまだ、子供なのかもしれないな。
そんなことを感じさせてくれた佳子さんに、まぶしさを感じていた。
この人、本当、何なんだろう。僕はますます、不思議な気持ちだった。
その後、バスは30分ほどかけて、図太い国道をぐいぐいと登った。
よくこんな急な坂を登るな、と何度来ても思う。
そして、急カーブを曲がるたびに、バスは大きく揺れる。
寝不足で気持ち悪いのにバスに乗ってしまったときは、
その揺れがもう来ないでほしいと願ってばかりだったが、
きょうの山登りは佳子さんが隣にいて、
バスが揺れるたびに素敵な薫りにほんのりと包まれるので、
とても幸せな時間だった。
そして、いよいよ、峠のてっぺんに着いた。
近くにある温度計はよく晴れた昼下がりなのに
「−4℃」という厳しい数字を示していた。
佳子 「予報士さん、寒いねー!」
僕 「はい」
佳子 「なんでこんな寒いの?」
僕 「きょうは放射冷却が朝強まった上に、昼になっても
冷たい空気が山の上から離れていかないからです」
佳子 「よくできましたー!キャー!」
峠の上を吹き抜ける突風に、
佳子さんは髪を振り乱して黄色い声を上げていた。
そこから歩いて、20分ほどさらに山道を登り、
佳子さんと僕は、峠の上のホテルに着いた。
もう、鼻水も凍る寒さだ。
佳子さん、よく来るな。よほど硫黄泉が好きなのか。
やがてホテルのガラス張りの玄関が見えた。
そろいの半纏を着た、ホテルの従業員が男性5人、女性5人。
ずらりと10人。玄関の前に並んでいる。
これから団体でも来るのかな。
そう思っていると、バッとみんな、頭を下げた。
「おつかれさまでございますーっ」
へ?
何か変なものを見てしまったような気がした。
佳子 「こんにちは」
佳子さんがたおやかにそう言うと、
一番年のいった、やや頭が禿げ上がった
番頭と思われる男性がさらに深々と頭を下げた。
「お嬢様、ようこそおいでくださいました」
お嬢様?
僕は事情がよくわからなかった。
佳子「もう、やめてよ。きょうは彼が来ているんだから。大事なの、彼。」
彼って、誰?大事なの、彼?
僕はますます事情がわからなかった。
番頭「これは、失礼いたしました。寒いので、どうぞ中へお入りくださいませ」
ホテルに番頭なんていないはずだけど、あまりにも番頭らしかったので、
この男性は番頭さんとさせていただく。
番頭さんに促されるように、僕は佳子さんと一緒に玄関に入った。
すると、玄関の中には、さらに頭の禿げ上がった男性がいた。
男性「佳っちゃん、よく来たの」
佳子「おじさま。ありがとうございます」
男性「むむ、この御仁は」
佳子「あ、彼です。連れてきちゃった」
男性「おお、これが。いい人そうじゃのお」
佳子「まあね(笑)」
男性「まあまあ、入んなさい」
どういう会話なのか、僕にはますますわからなかった。
ただ、佳子さんは、僕に悪びれずもせずに、どんどん話を進めているように見えた。
なんだか流れに取り残されているような気がして、
僕はあわてて会話に割って入った。
僕 「あのう、私」
男性「まあまあ、話はあとでゆっくり聞かせてもらうから、とりあえず入んなさい」
僕 「ええ?」
佳子「石井くん、遠慮しなくていいから」
僕 「ええ?」
男性「おお、石井くんというのか。どうかこれからしっかりよろしく」
僕 「あの、しっかりといわれましても」
佳子「い・い・か・ら! とにかく、入りましょう」
佳子さんは、見たことのない強引さで、僕を自分の世界に引きずり込んだ。
僕はちらりと、悪びれず強引になった佳子さんの顔を、
少しの不信感をたたえてから見た。
すると、佳子さんは、何か哀願する目をしていた。
しかも、何か困ったような目だった。
僕はその瞬間、つい
「あ、はい。わかりました」
と答えていた。
すると佳子さんはほっとしたように笑って、
「だよね」
と言って、ホテルの人たちと建物の中へと入っていった。
いったいどういうことなのだろう。僕の頭の中は、整理できないままだった。
ホテルの人たちと佳子さんに導かれたのは、ホテルの一番てっぺん、
つまり、箱根の中でも一番てっぺんと思われる展望室だった。
めちゃくちゃ、広い部屋だった。
ホテルの人たちが丁寧に、お茶だ、お菓子だと出してくれて、
ひとしきり挨拶がすむまで30分くらいかかった。
その間、僕はかなり居づらい思いをした。
敵方に囲まれた、心細い足軽のように。
やがて、演歌歌手のようなたいそうな和服を着た
最も年増な感じの女性が
「それでは、お嬢様、これで。ごゆっくり」
と言って、ようやく敵方の全員が去った。
僕はため息をついた。
そして、足軽はキッと姫様の顔を見た。
僕 「どういうことなんですか!わけわかんないですよ!」
佳子「ごめんね」
僕 「あの、一から説明してください」
佳子「一から説明すると長くなるんだけど」
僕 「じゃあ、十からでもいいです!」
佳子「あは(笑)面白いね。じゃあ、十からいこうか」
僕 「ふざけないでください!だって、どういう状況なのか、