Stare
その偶然に、私はこの傘が何か運命として私の元へとやって来たような、そんな気がした。私は少しだけ気分が落ち着くのがわかり、雨も少し収まったようだったので、そっと屋根の下から出た。
小走りに駅へと向かいながら、先程の女性の言葉が心に染みついているような不思議な感覚が私に迫ってくるような気がした。
駅へと何とか辿り着き、私は濡れた服をコンビニで買ったタオルで拭きながら、ようやくホームへと辿り着いた。良かった、と私はほっと一息つき、エスカレーターの側の通路を歩きながら、ふと視線を横へと向けてしまう。
線路のさらに先、フェンスの向こうには裏通りがあって、そこに様々な珍しい店が並んでいた。私が高校時代、先輩と一緒に通った「フラワークロック」という雑貨屋もまだそこにあった。
私はその店をじっと見つめていると、掌の中にある傘の感触がとても優しいものに思えてきて、自然とぎゅっと握った。
この傘が売られているのが、あの雑貨屋なのだ。今は営業時間を過ぎているので仕舞っているけれど、昼間は様々な可愛らしい雑貨が店の前に並べられ、落ち着いたクラシックが流れている。
そして、その隣には、私があの『スペース・オディティ』のCDを買った老舗のCDショップがまだあった。
私はあの道を、先輩と一緒にずっと昔に歩いたことを思い出す。彼女と「フラワー・クロック」に入って雑貨を見て回った後、その隣のCDショップで先輩に『スペース・オディティ』を勧められて買ったのだ。
それで、私はあの曲にとても思い入れがあったのだ。CDを買った時、私は先輩とお互いの夢を語り合ったのだ。
私は小説家になることで、先輩は素敵な人と巡り合うこと。私達は幸せなことに、どちらも夢を叶えることができた。
私は線路の前でじっとその店を見つめながら、小説の構想が徐々に出来上がってくるのを感じた。先輩の言っていた『ずっと見守っている』というあの言葉は、私の心を確かに暖かな感情で包み込んでくれたのだ。
そこでふと、傍らに誰かが立つのがわかった。振り向くと、そこには一人の背の高い少女が私と同じように線路の向こうを見つめ、佇んでいた。
セーラー服を着て、どこか可愛らしい顔をして、その瞳は優しげで、私は以前どこかで彼女を見たような気がした。けれど、記憶を探っても、彼女のことを思い出すことはできなかった。
「あの。今、あなたもあの雑貨屋を見ていましたよね」
少女が黒いストレートの髪を揺らせて振り向き、私に穏やかな笑みを浮かべて言った。
「うん。そうだけど」
私が少し驚きながらそう返すと、少女は子供のように無邪気な表情を見せて、突然語り出した。
「私、彼と一緒にあの雑貨店に入って、初めてプレゼントしてもらったんです。それを今までずっと大切にしていたんです。でも……」
少女の眼差しが少しだけ寂しげなものに変わり、小さな掻き消えそうな声でつぶやいた。
「もう私、彼と会うことができなくなってしまって……それでも、ずっと彼のことを“見守って”いるんです」
彼女はそう言って唇を噛み締めて俯いてしまった。私は何故彼女が突然語り出したのかわからなかったけれど、それでも彼女の心を元気付けようと口を開いた。
「あなたもあの雑貨店に思い出があるのね。私も昔大切な人と一緒にあの店を見て回って、それで今の私があるの。不思議な巡り合わせね」
私がそう語ると、彼女はそっと小さく笑った。とても美しい笑顔だった。
私が彼女のことを聞こうと再び問いかけようとした時、ホームに電車が到着して、滑り込んできた。
私は乗車口の端へと体を寄せて、再び少女の方へと振り向いたけれど、そこには既にその姿はなかった。私ははっと左右へと視線を巡らせたけれど、それらしい影は見当たらなかった。
電車の中へと移動しながらも、ずっと彼女の背中を探したけれど、彼女はもうどこかへ行ってしまったらしかった。
吊り革につかまって電車に揺られながら、私はぼんやりと彼女のことを考えた。図書館の前で会った女性のこと、セーラー服を着た美しい少女の言葉を考えていると、掌の中の傘へと視線が向かってしまう。
その傘が、何か特別な想いによって私に言葉を掛けてくるような、そんな気さえした。私は首を振り、考えすぎね、と小さく笑った。
*
自宅のマンションへと帰ってきて、傘立てに林野さんから借りた傘を置くと私はすぐに服を脱いでそれを乾かした。普段着に着替えて、ようやく一心地つく。
私はいつもの習慣でロイヤルミルクティーを作ることにした。紅茶をボウルに入れて熱湯に浸しておいた後、手鍋に入ったミルクと水を火にかけた。
沸騰する前に紅茶を入れて火を止め、掻き混ぜる。数分蒸らしてから茶こしを使ってカップに入れ、ようやく完成した。
私はその作業を終える頃には、大雨でバタバタして落ち着かなかった気持ちが少しずつ元のように穏やかなものへと変わっていくのを感じた。
この作業をしないと、いつもの自分には戻れないような気がしたからだ。私はテーブルについてメイプルシロップを入れながら、ミルクティーを少しずつ飲んだ。
そこでようやく、心の中に一つのテーマが形となって浮かび上がってくるのを感じた。大切な人が今もどこかで見守っていてくれているということ、それを常に感じて生きていくことの大切さ。
そうしたものを作品に篭めていきたいと思った。そんな中、喫茶店のオーナーのことを思い出して、私は微笑んでしまう。私と彼はすごく歳が離れているし、こんな風に思ってしまうのはとても場違いな気がした。
そこでふと、ドアがコンコンと軽くノックされたのがわかった。私は少し体を震わせて振り向き、何だろう、とドアを見つめた。
すると、再び小さなノックが聞こえてきた。私は誰だろうと思って椅子から立ち上がり、ドアへと近づいて迷ったけれど、チェーンをかけて出ることにした。
ドアをそっと開くと、そこには少し前に見たその優しげな顔があった。
図書館で出会った女性だと気付いた時には、彼女は身を乗り出して懇願するような声で語り始めていた。
「あなたにお願いがあるのよ。林野の側にずっといてあげてくれない? もう私は――」
私が瞬きをした時には、そこに立っていた女性の姿は、セーラー服を着た美しい少女の姿へと変わっていた。
「私は彼と一緒にいることはできないから。だから、あなたが彼の想いを受け止めてあげて」
少女は私の手首を握って、涙を浮かべてそう訴えかけてくる。
「あなただって、彼のこと悪く思ってないでしょう? だから、お願い――」
私はようやくそこに立っている女性が誰なのかを悟った。そういうことだったのか、と私は傘立てに置いてある一本の傘を見遣り、肩の力が抜けるのがわかった。
私は小さく息を吸い、薄く微笑んだ後、わかりました、とつぶやいた。
「彼の側に出来る限り一緒にいてあげようと思います。どこまでできるかわからないけれど、この想いがある限り、ずっと一緒にいます」
私がそう言って彼女の手を離すと、少女が涙を浮かべたまま、花びらが一斉に吹き乱れるような笑顔を見せてうなずいた。
ありがとう、とつぶやく。