さくらメロディ
5
私は駆け続けた。歌って、歌って、そして喉が枯れるほどにその命の叫びを全国に轟かせた。その声は地中を震わせ、色々な花を咲かせた。私の名前は皆に囁かれ、やがて私はギターの音色を男の歌と重ね合い、その歌を遠く彼方へと運ばせることができた。
私の歌声が人々の心に届く時、それは私の一番の願いが叶った瞬間だった。だから、私は男と交わした一つ一つの言葉を心に刻み付け、根底に流れるその熱い脈動をいつまでも忘れられなかった。ストリートで響き渡った男のあの歌を思い出す度、いつも疲れてもまた歩き出そうという気持ちになれた。
そうしてその年にも夏が到来し、フェスに出演することになった。私はその出演者の項目を見つめて、大きく唾を呑むことを抑えられなかった。
そこに載っているその有名なミュージシャンの名前。
三上 麻理子。
彼女と桜の木で交わした想い、そして荒削りで未熟な、私の精一杯の歌声を思い出すと、私は握ったギターの感触を強く掌に感じる。私はあの人の前で、届けたい想いを精一杯夏風に乗せて囁こう。
そう心に決めて――そして、ある一つの決意を秘めて――私は夏フェスに臨むことにしたのだった。
そして当日がやって来ると、私は蒸し暑い熱気を逃げることなく全て受け止め、自分の持てるエネルギーを注ぎ込み、ステージに立った。タオルを肩に掛けた観客が眩しい陽射しの中で咽返るような暑さを跳ね返すような声を張り上げている。
私はギターを握り、目を閉じた。まず一曲は、これだ。
私は鋭いシャウトを繰り返し、エレキギターを握ってステージに仁王立ちし、声を張り上げた。夏らしい、焼け付くような攻撃的な声と爽やかなロックが絡み合い、それは無数の竜巻を引き起こして、観客のタオルをすさまじく回転させる。
観客はタオルを回しながら、体を揺らせて会場は内側から巻き起こる炎によって熱風を引き起こす。その熱さが私の元へとフィードバックしてきて、私は髪を浮き立たせながら、その曲で精一杯フェスを盛り上げた。
そして、二曲目の切ないバラードを唄い終え、私はそこでアコースティックギターを構え、まっすぐ観客へと顔を向けた。そして、視線をゆっくりと上げ、そのはるか先、地平線へと向ける。
そこに溶け込む無数の魂と音楽と、想いと、小さな願いを私は心の中に一つ一つ確認していくと、やがてそっとバックステージへと顔を向けた。そこに佇み、にっこりとあの時のような微笑みを浮かべて私を見つめている一人の歌姫。
私は彼女に向けてその決意を打ち明けて、ここにいる観客の心に火を点ける。それはあの男の音楽だからできるのだ。
「皆さん、今、会いたい人はいますか?」
私の突然の問い掛けに、観客が少しだけ息を止め、私の言葉に耳を澄ませる。
「私は皆にとても会いたかったんです。こうして叶って本当に良かった。皆にももう別れてしまった恋人や、疎遠になった友達、遠くへ旅立ってしまった人々がいるかもしれません。彼らとはもう会えないだろう、とあきらめていませんか? でも、彼らと繋がることができる魔法が一つだけあるんです」
私はそう言ってギターに手を振り下ろした。その音色がわずかに会場を大きな炎で包み込む。私の指がギターを離れると、再び観客は静まり返り、じっと見守っている。
「それは、音楽です。音楽はどんなに離れていても、その人の元に辿り着きます。陳腐な言葉ですが、この曲を、その人のことを想いながら聴いてくださると嬉しいです。あなたが大切に想っているその人は、まだ遠いどこかであなたへ向けて歌を囁いています。その視線を地平線へと向けて、そこにあなたがいると信じて、彼は歌い続けているんです」
三上さんの目がわずかに見開かれ、こちらをじっと見つめているのが見えた。私は彼女にうなずいてみせ、前へと再び向き直り、マイクに吐息を吐きつけた。
「桜の、木の下で」
わずかに歓声が上がり、私はギターに指を触れ合わせ、そっと弾き出した。そのどこか懐かしい和風の音色がぽつぽつと宙へと浮かんで、観客の心に吸い込まれていくと、全く聴いたことのない曲に身を乗り出して聴き始める。
そこで歌詞を口ずさみ始める。ところどころ私が添えた歌詞になっているけれど、あいつの残した想いはそのままだ。そのメロディの一つ一つがはっきりと会場に木霊し、確かな熱情を湧き立たせる。それは自然と動き出したくなるような興奮で、観客が体を揺らし始める。
私の歌声とメロディが反発し、溶け合って、螺旋状に空へと立ち昇っていく。それはここにいる全ての人の願いを篭めて、遠くにいるその人へと風に乗って運ばれていくのだ。
私は目を閉じ、祈りを篭めるように歌声をマイクに吐きつけていく。
そこには不安も、見栄も、緊張さえもなく、ただ純粋に男のこの歌を、彼女に届けたい一心で私は歌い続けた。私の決意とは、三上さんに彼の想い全てを届けることにあった。この歌を通して、確かに二人はこの世の果てにいても強い絆で繋がることができるのだ。
男は今頃、相変わらず女の子の太ももを見て鼻の下を伸ばしているかもしれないけれど、それでも、三上さんの心の囁きは空を突き抜けて彼の胸を矢となって射抜くはずに違いないのだ。
だから、私はその確かな想いだけを拠り所にして彼女へ向けてその歌を唄い続ける。
三上さんの唇が、なんで、と微かに言葉を囁くのがわかる。私はふっと微笑み、その柔らかな眼差しで彼女に呼びかける。
あいつはまだ、あなたの為に作ったこの曲を歌い続けているんです。全てのメロディ、全ての言葉を胸に刻み付けて、あなたとの時間を片時も忘れずに音楽を奏でているんです。あなたのことは絶対に忘れていたりしません。今もあなたのことを見て、彼は不敵な笑みを浮かべてうなずいています。
私のそのつぶやきは確かに三上さんの元に届いたようだった。私はギターのその旋律を空の遠く彼方へと運んでいくと、やがて最後の吐息をマイクへと吸い込ませ、ギターから指を離した。
一瞬、間があった。彼のその魔法のような歌は、人々の心に確かに大きな炎を燃え上がらせたようだった。
遅れて、爆発的な拍手が会場を覆う。私はありがとう、と囁き、深く頭を下げると、ステージを後にする。そして、まっすぐその人の元へと向かうと、私は霞んだ視界の中で、彼女に言葉を囁きかける。
「本当に、本当にありがとう。今、彼の想いが確かに繋がったわ」
三上さんはショートの髪を涙で頬に張り付けながらも、懸命に笑ってそう私に語った。
私もうなずき、そっと固い握手を交わした。
今、あの男はどこかで私の歌を聴いていただろうか。
あいつには度肝を抜かされてばかりだったけど、ようやく一矢報いることができたね。
次に会う時は、あんたの顎を開きっぱなしにしてやるよ。
私はそう思い、碧い空の向こうの、仏頂面に舌を出して笑った。
了