さくらメロディ
「そんなのお前に言う義理はねえ。ほら、プロはこんなところで素人の歌聴いてないで、さっさと金稼げよ、コラ」
男が立ち上がろうとしたところで、私はその前へとすっと身を乗り出し、あのさ、と声を張り上げた。
「ああ? なんだ? この後、一発やろうってか?」
「その曲、私も弾くようにしていいかな? その歌を唄っていれば、あんたの心の奥深くに巣食う何かがわかるような気がする」
「勝手にしろよ。もう誰にも聞かれることのない歌だからな」
歩き出そうとする男の肩をつかみ、それは違うよ、とつぶやいた。
「あんたが想っているあの人は、まだ同じようにあんたのことを想っているんだよ。忘れてなんかいない。今も音楽を通してあんたと繋がってる」
そこで男が勢い良く振り向き、何かを言いかけたけれど、すぐに舌打ちをついてそっぽを向いた。
「あいつはもう、俺のことなんか忘れてるよ。お前みたいにいちいち俺を気にしてられる余裕がある奴なんていねえよ。こんなアマチュアをよ」
「あの人はあんたといた時間があったから、これまでやって来れたんだよ。あんたは自分で思ってる以上に、その人に大切に想われている。そのことを認めることも、あの人への恩返しだよ」
「お前――」
男は目を見開いて私を驚いたように見つめていたけれど、やがて何かに気付いたように再び前を向いた。そして、少しだけ優しい笑みを浮かべて、そうか、と小さくつぶやいた。
「お前、そういうことにしておくか。俺はふらふらとまだストリートほっつき歩いているけど、お前は違うだろ。何千何万人に歌を届けることができるんだから、お前は胸を張って、自分のそのままの声をぶつけてやれ。処女だってこんなに色気出せるんだぞって踏ん張れよ、ガキ」
私はその時だけは男の横っ面を引っ叩いたりしなかった。そうだね、と笑い、そこで男が歩いていくのを見守る。
男はよろよろと左右によろけながら、がに股でみっともなくストリートを進んでいく。その擦り切れたジーンズも、汗臭いTシャツも、男のその空気を纏って少しだけ――ほんの少しだけ、カッコよく見えた。私はふっと微笑み、サングラスを外した。
「あ、そうだ、一つ言い忘れたことがある」
男が足を止め、ゆっくりと振り向いた。その顔には、意地悪な下卑た笑いが浮かんでいた。
「お前の歌からすごく想いが伝わってきたよ。案外お前の探していたものは、お前の中にあったのかもな」
そんな言葉を吐き捨てると、男は軽く手を上げてその場所から去っていった。ゆっくりとそのぺたぺたという足音が遠ざかると、彼が見つめていた高層ビルのずっと先、宵闇に沈んだ地平線を見遣る。
私の探していたものは、探していなくても、もうすぐ目の前にあったものなんだ。
すぐそこにある。案外真実は、すぐ側にあるのかもしれない。
そう思って、なんてな、と私は男の口調を真似てつぶやいた。