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笑い三年、泣き八年、太鼓たたいて十三年

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太鼓たたいて十三年


「えー、大旦那さまのお召しにあずかり参上つかまつりました、お座敷をつとめさせていただきます、平助でございます」
 うやうやしく挨拶してから顔を上げ、そして彼は心のなかで、あっと叫んだ。てっきり賑やかだと思っていた座敷のうちには、上席に憮然とした表情の成田屋七兵衛がひとり、その横には、これも多少顔を引きつらせた感じの静波が、緊張した面持ちで控えているだけだった。目を凝らして部屋のなかを見渡してみても、この二人きりより他にだれもいない。賑やかに笛を吹き、三味を鳴らす芸者衆のすがたは、どこにも見当たらなかった。
 座の空気は、あきらかにしらけきっていた。平助は、これはいけないと思いすぐに立ち上がると、たすきをかけ、着物の尻をはしょって帯にねじりこみ、手ぬぐいで鉢巻をしめた。
「では、さっそくご無礼をばつかまつりまして、――あら面白やの、神踊りっと、はい、やーとこせ、やれ、住吉さまの、きしの姫まつ、めでたさよ、それっ」
 節をつけて歌の文句を諳んじると、そのまま、ついっ、ついっと、外股の足さばきで踊りだした。すぐにその動きにあわせて、静波のひく三味線が心地よい感じでかぶさってくる。
 てん、てと、ててん、てん――。

 かっぽれ かっぽれ よーいとな よいよい
 猪牙でゆくのは深川がよい わたる桟橋の あれわいさのさ いそいそと
 客のこころは うわのそら
 飛んでゆきたい あれわいさのさ ぬしのそば

 かっぽれは、もとは住吉大社のお田植え神事に奉納される住吉踊りが原型だといわれている。それが願人坊主などの手により大道芸として広められ、やがて宴会芸に取り入れられた。江戸は吉原で活躍する幇間たちにとって、これはまさにお家芸と言ってもよい。こっけいな振り付けの男踊りではあるが、一流の演者たちの手にかかると、なんともいえない艶っぽさが伝わってくる。はじめ、腕を組んで憮然とした面持ちでながめていた成田屋も、しだいに表情をゆるめ、しまいには手を打って囃子を入れはじめた。
「あーこりゃこりゃ、っと、あははは」

 ありゃせ こりゃせ やっとこせ よいやな
 坊さま二人で芳町がよい あがるお茶屋は あれわいさのさ いそいそと
 となり座敷を ながむれば
 さしつ押さえつ あれわいさのさ キツネけん

「平助とかいったね、ささ、まずはこっちへきて一献やりな」
 踊り終わって、額にうっすら汗をにじませながらかしこまる平助を、成田屋が手招いた。すっかり気を良くしたようで、片口の銚子をぐいっと突き出してくる。差された盃をうやうやしく受けて、平助はそれをぐいっと干した。
「へへっ、こりゃどうも、ようやく生返りやした、ありがとうぞんじます」
「わたしは、こういうところへ一人で来るのは初めてでね、不案内だから、なにか作法にかなわぬことがあるかもしれないが、そのときは遠慮なく言っておくれ」
 たばこ盆を手元へ引き寄せながら、成田屋が言った。平助は、背を丸めてちょこなんと座ったまま、顔の前で大げさに手を振ってみせた。
「いえいえ、吉原遊びが格式ばっていたのは、もう、うん十年も昔の話でございますよ。わずらわしい作法が嫌われて、深川や新宿あたりの岡場所にすっかりお株をうばわれてからは、ここ吉原もだいぶ遊びやすくなりました」
「そうかい。いつもは付き合い酒に顔を出す程度で、それもたけなわになる前にそそくさと退散するものだから、遊びかたなどよく分からない。今だって、あんたがこうして来てくれなかったら、わたしは静波と二人、ずっとここでお見合いをしていたことだろうよ」
 ははは、と乾いた笑い声を立て、成田屋はゆっくりと煙管をくわえた。
「なんのまあ、それでいしたら、ぬしさん、今日はどういう風の吹き回しでおいでなんしかえ?」
 静波が、盃に酒をそそぎながら小首をかしげる。髷のうえで玉かんざしが踊り、しゃらりと鳴った。成田屋は、干した盃を静波に返すと、今度はそれに酒をそそぎながら曖昧な返事をした。
「まあ……、この歳になるといろいろとあってね」
 そんな二人のようすを、平助は愛想笑いをうかべつつも素早く観察した。たしかに自分がここへ来たとき、二人は緊張して顔をこわばらせていた。しかし殺気だってぎすぎすしたという感じではなかった。今だって静波は、素知らぬ顔で盃を受けている。親の敵と酒を酌み交わす、そんな殺伐とした雰囲気はここにはなかった。
 お里の考えすぎか……。
 しかしその後に発した成田屋の言葉は、平助を青くさせた。
「なあ静波、お前は両親や兄弟のことを覚えているかい?」
「へえ?」
「家族のことだよ。ちゃんと達者で暮らしているのかい?」
 彼女の顔色が変わるのを、平助はたしかに見た。市松人形のように白粉を塗りたくった遊女の顔は、素人目にはその表情の変化をとらえにくい。しかし長年吉原で客と遊女のあいだを取り持ってきた平助になら、彼女たちの心のうちにある、喜びや、悲しみ、怒りや、驚きが、そのわずかな顔色の変化で手に取るように分かった。
 ――やはり静波は知っていたのか。
 成田屋が彼女の父の店を潰すきっかけをつくった男で、ひいては自分が吉原へ身売りするはめになった、その原因をつくった張本人だということを。
 なにか言葉を取り繕って話の流れを変えなければと思案しているところへ、気をとり直した静波が、ぽんとやり返した。
「ここは廓のなかでありんす、浮き世のそとの話は、大門の向こうでやっておくんなんし」
「これはすまなかった、少し酒に酔ってしまったようだ。若いころから働きづめに働いていたせいで、こういうところへ来るとつい身についた野暮な性分が出てしまう。ゆるしておくれ」
 成田屋がそう穏やかに詫びると、静波はふだんと変わらぬ顔にもどり、軽くしなをつくって言った。
「もう、お休みなんせ。あちらに床のご用意も出来ておりいす」
 見ると、奥の間の、わずかに開いた襖の向こうに床が敷き延べられていた。枕元に置かれた香炉から、紫色の煙が天井へ向かって糸のように立ち上っている。
 平助は、なぜだか軽い吐き気をおぼえた。
 成田屋は今夜、静波を抱くのか……、自分が苦界へとおとしめたその少女を、抱くのだろうか……、勝ち誇って、汚して、それで満足して眠るのだろうか……。
 心の奥底の、ふだんはフタをして気づかないふりをしている、その暗闇の部分から、ひしひしとやりきれない思いが、焼けつくような怒りがこみ上げてくるのを感じた。
 ――人の世は、なんて無情なんだ。
「これ、太鼓持ち。なにか賑やかな唄でもうたっておくれ」
 不意に成田屋から声をかけられ、平助は反射的に笑顔で返した。
「へい」
 こんなときでも、ふだんと変わらぬ愛想笑いが出てしまう。我ながら、身についた性分を悲しいと思った。
 しかし自分の仕事は、笑うことであり、ひとを笑わせることであると、平助は信じている。怒りも、憎しみも、悲しみも、それを笑って、笑って、笑い飛ばしてしまうことが出来れば、人はその身に背負わされた苦しみを、いくらかでも和らげることが出来る。平助は、いつもそう自分に言い聞かせ、了見できない苦い思いを胸のうちに押しとどめてきたのだった。
 商売道具の団扇太鼓を勢いよく、ででん、と打ち鳴らす。