冬の湖
ぱきり、と。
枯れ枝を踏む音に、長い髪と膝丈のドレスの裾を揺らして振り向いた。
首の高い、紺色のヴェルヴェットのドレスとその下から覗く、幾重もの白いペチコートは上品な重さを従えて。
胸元に大きく咲いた深紅のリボンはふうわりと風に舞うように軽く。
「……ジョヴァンニ」
鬱蒼とした森の中、彼女の背後には岸辺に近い所から冷たく凍り始めた湖面。
ドレスと同じ色をした水はぬらりと濃い色彩を織り上げていき、その深さを推し量ることを頑なに拒んでいる。
その前に立っている少女は驚いた表情をすぐに和らげた。泣き笑いのような、儚い笑顔。
まだあどけなさの残る、美しい少女のそれは、しっとりと濡れたような艶やかさを含んだ黒髪に縁取られてより一層白さが映える。
影が出来る程に長い睫をしばたたいて、黒い瞳をうっとりと細めた。
十五歳そこそこにしか見えない外見には不釣合いな声音。
いや、声自体は小鳥の囀りのように高く澄んでいるが、そこに漂う雰囲気は、まるきり女のものだった。
「よくここが判ったわね」
「ずっと、探していたんだ。マリアンナ」
マリアンナ。
そう呼ばれた少女はうっそりと、また、笑んだ。
「君に逢いたくて……ずっと探してた。やっと、みつけた」
青年は、それきり、言葉を噤んだ。これだけを口にするのが精一杯だというように。
「嬉しい……。わたしも、貴方に逢いたかった。ずぅっと……待っていたのよ。ここで」
紅い唇から紡ぎ出される言葉も、投げ掛ける視線も、長く離れていた恋人と再会した女のそれ。
なのに、二人の間には、きっちりと測られ線でも引かれたように歴然とした距離が存在している。
先程彼女が振り返ったままの。
「あれから、ずっと?」
数える程の沈黙を置いてから、青年が問うた。
「そう。ずっと、ここで。貴方に言われた通りに」
許された者にしか見ることの叶わないような満面の笑み。
しかし。
それはあまりにもあっけなく。
「それは、嘘だ」
青年の言葉で、その笑顔はひびの入った陶器のように強張った。
凍てつく冬の朝の如き表情は、感情をまるきりなくしていた。
「じゃあ、何故、今まで僕は君をあちこち探し歩いた?」
「それは貴方がわたしを見つけられなかったから」
「こんなにも、長い間」
俯き呟くジョヴァンニにも、乾いた表情が貼り付いている。
「君は、僕から逃げていた」
「逃げてなんかない。すぐに戻って来たわ。それからは、ずっとここにいた」
少女の顔をおおっていた先程の冷たさがゆるやかに融けだした。そして、また、紅く愛らしい唇の端がつり上がる。
「今ここにこうして立っている為には、時間が必要だったのよ……」
顔の皮膚が引きつったような感覚がなかなか消えない。一言一言を吐き出すだけで、筋肉と神経が軋む。
口元を覆ったジョヴァンニは、長い息をついてから、
「――ある人形師の残した最高傑作。それを最後に、彼は人形作りをやめた。……『彼女』以上の、否同等のものすらも――作っていく自信がなかったから。そして、『彼女』を大事に大事に慈しんだ。妹のように、娘のように――恋人のように。それは、彼の最大の弱さであり、過ちだった」
青年の独白を聞いていた少女は、一つ頷いてから滑らかにその後を引き継いだ。
「生業を棄ててしまった人形師の生活は日に日に困窮していき、それとは裏腹に『幻の最高傑作』という看板だけが一人歩きを始めた。彼は『彼女』を手放す気はなかったが、足元を見た好事家たちが破格の値をつけていく。そして、ある日最後まで追いつめられた人形師は、『彼女』を――」
そこで、少女――マリアンナは青年を見つめた。何かを確信するような視線を送りつけてから、ふわりと歩き出した。
湖の淵をなぞるように。爪先立ちの軽い足取りで。時折よろけて見せるのが危なっかしくもあるが、まるで愛らしい。
やがて、ここがゴールだと一本の大樹の前でとん、とよく磨き込まれた靴の両足を揃えて立ち止まる。
ねじくれた枝が、湖の一部を冬の日差しから守るように逞しい腕を差し伸べている。
その根元、少し色の変わった所をとんとん、と爪先でつついて。
「埋めた」
二人の声が重なった。
「『彼女』は待っていた。別れる間際の、人形師の言葉を信じて。――必ず、迎えにくるからね……」
歌うように続けた少女は、天使の笑みを零した。
「その後、少し、留守にしたけれどね」
ああ――、とジョヴァンニは喉の奥でうめいた。
「時間と、彼を恋焦がれる気持ち。あまりに長すぎて、あまりに強すぎて……『彼女』は、『幻の最高傑作』は、遂に一人歩きを始めた……」
この頃巷を賑わす一連の事件。
十五歳前後、色白の娘が拉致される。そのまま消息を絶ち――運がよければ数日後、身体の一部が欠損した遺体で発見される。
あまりに頻発する当局は、とある過去の記録に遭遇する。
この辺りで。数年前から。不定期に。
同じような。事件が。
段々と――その頻度を詰めて。
マリアンナはちろり、と唇を舐めた。
「でも……徐々に上手になってはいるのよ……?」
柔らかなヴェルヴェットの上からそっと左の二の腕を撫でさする。
「でも……どうしてなのかしら。最近、すぐに駄目になってしまう……ほら」
捲り上げた腕は白く――その白さを保っているのは手首までで。そこから上は青黒く変色している。
「つい、この間取り替えたばかりなのに……」
少女の背後で。
薄く氷の張り始めた湖面の下で。
左腕をもがれた少女のしなやかな、しかし凍りついた裸体が。
その頬に張り付いた涙も凍りついたままで。
愛しすぎたのだ。
私も、『彼女』も。
だから、どこからか、何かが狂い始めて。
あまりにも強すぎた想いは魔法(呪い)へと変わり。
『彼女』は生まれ変わった。
人の身体を備えて、自ら土から這い出した。
ほら、見て。完璧でしょう?
――こんなにも。
「可哀想に……見せてご覧」
ジョヴァンニが手をそっと差し伸べると、マリアンナは無残に腐食した腕を隠そうともせず嬉しそうにたたた……と走り寄って来た。
「――本当に」
少し息が上がっている。
「本当に、本当に、ジョヴァンニなのね!? ……ッ、お帰りなさい、ご主人様(マイン・マイスター)!」
「逢いたかったよ、マリアンナ」
先程の妖艶なまでの雰囲気は何処へやら、無邪気に飛びついてくる少女をしっかりと抱きとめる。
――途端、一気に知覚される、尋常な人間ならばおかしくなりそうな、腐臭腐臭腐臭。
よく見れば皮膚の所々が青黒く赤黒くなっている。
尋常でない身体尋常でない精神尋常でないこの瞬間。
それを、終わらせる為に。
「……おやすみ」
ジョヴァンニは静かに告げた。はっとしたマリアンナが離れようとしたときにはもう既に遅かった。
「炎よ」
枯れ枝を踏む音に、長い髪と膝丈のドレスの裾を揺らして振り向いた。
首の高い、紺色のヴェルヴェットのドレスとその下から覗く、幾重もの白いペチコートは上品な重さを従えて。
胸元に大きく咲いた深紅のリボンはふうわりと風に舞うように軽く。
「……ジョヴァンニ」
鬱蒼とした森の中、彼女の背後には岸辺に近い所から冷たく凍り始めた湖面。
ドレスと同じ色をした水はぬらりと濃い色彩を織り上げていき、その深さを推し量ることを頑なに拒んでいる。
その前に立っている少女は驚いた表情をすぐに和らげた。泣き笑いのような、儚い笑顔。
まだあどけなさの残る、美しい少女のそれは、しっとりと濡れたような艶やかさを含んだ黒髪に縁取られてより一層白さが映える。
影が出来る程に長い睫をしばたたいて、黒い瞳をうっとりと細めた。
十五歳そこそこにしか見えない外見には不釣合いな声音。
いや、声自体は小鳥の囀りのように高く澄んでいるが、そこに漂う雰囲気は、まるきり女のものだった。
「よくここが判ったわね」
「ずっと、探していたんだ。マリアンナ」
マリアンナ。
そう呼ばれた少女はうっそりと、また、笑んだ。
「君に逢いたくて……ずっと探してた。やっと、みつけた」
青年は、それきり、言葉を噤んだ。これだけを口にするのが精一杯だというように。
「嬉しい……。わたしも、貴方に逢いたかった。ずぅっと……待っていたのよ。ここで」
紅い唇から紡ぎ出される言葉も、投げ掛ける視線も、長く離れていた恋人と再会した女のそれ。
なのに、二人の間には、きっちりと測られ線でも引かれたように歴然とした距離が存在している。
先程彼女が振り返ったままの。
「あれから、ずっと?」
数える程の沈黙を置いてから、青年が問うた。
「そう。ずっと、ここで。貴方に言われた通りに」
許された者にしか見ることの叶わないような満面の笑み。
しかし。
それはあまりにもあっけなく。
「それは、嘘だ」
青年の言葉で、その笑顔はひびの入った陶器のように強張った。
凍てつく冬の朝の如き表情は、感情をまるきりなくしていた。
「じゃあ、何故、今まで僕は君をあちこち探し歩いた?」
「それは貴方がわたしを見つけられなかったから」
「こんなにも、長い間」
俯き呟くジョヴァンニにも、乾いた表情が貼り付いている。
「君は、僕から逃げていた」
「逃げてなんかない。すぐに戻って来たわ。それからは、ずっとここにいた」
少女の顔をおおっていた先程の冷たさがゆるやかに融けだした。そして、また、紅く愛らしい唇の端がつり上がる。
「今ここにこうして立っている為には、時間が必要だったのよ……」
顔の皮膚が引きつったような感覚がなかなか消えない。一言一言を吐き出すだけで、筋肉と神経が軋む。
口元を覆ったジョヴァンニは、長い息をついてから、
「――ある人形師の残した最高傑作。それを最後に、彼は人形作りをやめた。……『彼女』以上の、否同等のものすらも――作っていく自信がなかったから。そして、『彼女』を大事に大事に慈しんだ。妹のように、娘のように――恋人のように。それは、彼の最大の弱さであり、過ちだった」
青年の独白を聞いていた少女は、一つ頷いてから滑らかにその後を引き継いだ。
「生業を棄ててしまった人形師の生活は日に日に困窮していき、それとは裏腹に『幻の最高傑作』という看板だけが一人歩きを始めた。彼は『彼女』を手放す気はなかったが、足元を見た好事家たちが破格の値をつけていく。そして、ある日最後まで追いつめられた人形師は、『彼女』を――」
そこで、少女――マリアンナは青年を見つめた。何かを確信するような視線を送りつけてから、ふわりと歩き出した。
湖の淵をなぞるように。爪先立ちの軽い足取りで。時折よろけて見せるのが危なっかしくもあるが、まるで愛らしい。
やがて、ここがゴールだと一本の大樹の前でとん、とよく磨き込まれた靴の両足を揃えて立ち止まる。
ねじくれた枝が、湖の一部を冬の日差しから守るように逞しい腕を差し伸べている。
その根元、少し色の変わった所をとんとん、と爪先でつついて。
「埋めた」
二人の声が重なった。
「『彼女』は待っていた。別れる間際の、人形師の言葉を信じて。――必ず、迎えにくるからね……」
歌うように続けた少女は、天使の笑みを零した。
「その後、少し、留守にしたけれどね」
ああ――、とジョヴァンニは喉の奥でうめいた。
「時間と、彼を恋焦がれる気持ち。あまりに長すぎて、あまりに強すぎて……『彼女』は、『幻の最高傑作』は、遂に一人歩きを始めた……」
この頃巷を賑わす一連の事件。
十五歳前後、色白の娘が拉致される。そのまま消息を絶ち――運がよければ数日後、身体の一部が欠損した遺体で発見される。
あまりに頻発する当局は、とある過去の記録に遭遇する。
この辺りで。数年前から。不定期に。
同じような。事件が。
段々と――その頻度を詰めて。
マリアンナはちろり、と唇を舐めた。
「でも……徐々に上手になってはいるのよ……?」
柔らかなヴェルヴェットの上からそっと左の二の腕を撫でさする。
「でも……どうしてなのかしら。最近、すぐに駄目になってしまう……ほら」
捲り上げた腕は白く――その白さを保っているのは手首までで。そこから上は青黒く変色している。
「つい、この間取り替えたばかりなのに……」
少女の背後で。
薄く氷の張り始めた湖面の下で。
左腕をもがれた少女のしなやかな、しかし凍りついた裸体が。
その頬に張り付いた涙も凍りついたままで。
愛しすぎたのだ。
私も、『彼女』も。
だから、どこからか、何かが狂い始めて。
あまりにも強すぎた想いは魔法(呪い)へと変わり。
『彼女』は生まれ変わった。
人の身体を備えて、自ら土から這い出した。
ほら、見て。完璧でしょう?
――こんなにも。
「可哀想に……見せてご覧」
ジョヴァンニが手をそっと差し伸べると、マリアンナは無残に腐食した腕を隠そうともせず嬉しそうにたたた……と走り寄って来た。
「――本当に」
少し息が上がっている。
「本当に、本当に、ジョヴァンニなのね!? ……ッ、お帰りなさい、ご主人様(マイン・マイスター)!」
「逢いたかったよ、マリアンナ」
先程の妖艶なまでの雰囲気は何処へやら、無邪気に飛びついてくる少女をしっかりと抱きとめる。
――途端、一気に知覚される、尋常な人間ならばおかしくなりそうな、腐臭腐臭腐臭。
よく見れば皮膚の所々が青黒く赤黒くなっている。
尋常でない身体尋常でない精神尋常でないこの瞬間。
それを、終わらせる為に。
「……おやすみ」
ジョヴァンニは静かに告げた。はっとしたマリアンナが離れようとしたときにはもう既に遅かった。
「炎よ」