Hidden swivel
六年前の、一日だけ大雪が降った夜。遠野謙一にとって、その日は全てを変えた日だった。今年四十二歳になろうとしている身には、様々な思い出が人一倍多く刻まれていた。人生のほとんどを『悪ガキ』として過ごした男にとって、これ以上何かが起きることはないだろう。遠野は、治美と結婚した二十五歳のときから、根拠はないながらも、そう確信していた。治美は、その場にいるだけで、周りのあるもの全てを強い力でまっすぐに治してしまう、そんな磁力のようなものを持っている女性だった。一番強い力で捻じ曲げられたのは、遠野自身の生き方だった。いつ人を殺してもおかしくないような粗暴な男だった遠野は、治美の力で、『矯正』された。一緒にいたいと心の底から思うようになり、結果として結婚した。子供は作らず、夫婦共稼ぎで旅行やコンサートに毎週のように繰り出す生活を送った。それは、遠野自身が理想としていた結婚生活でもあった。
どういう巡り会わせで出会うことになったのか。それ自体が不思議だと、遠野は常々思っていた。
しかし、もっと不思議だったのは、その治美をどうして事故で失う羽目になったのかということだった。六年前の、大雪が降った夜。二月四日だった。治美の運転する車は、道路に飛び出してきた別の車と衝突事故を起こした。それだけなら軽い怪我で済んだに違いないが、治美の運転する車はコントロールを失って、凍った川へ上下逆さまに落ちた。死因は溺死だった。ブレーキ痕はなく、わき見運転か居眠りと判断された。
巡り合わせで手に入れたものは、不運によって奪われた。遠野は、過去に引きずられるように粗暴さを取り戻した。そして、一年前。それは最適な形で発揮された。遠野は、衝突事故を起こした相手の名前を頭に思い起こした。大島信介、会社員。事故当時、三十一歳だった。目立つところのない、中背中肉の男。遠野は、背はさほど高くないにしても、強面で体格はがっしりとしていた。小学校時代から、力では右に出るものはいなかった。そして、そのときの善行は、また不思議な巡り会わせで役に立つこととなった。
当時、クラスで最もひ弱で、からかいの対象になっていたみんなのサンドバッグ。名前は稲場幸一。ありがたくないあだ名は『稲カス』。小学校時代、正義感の強かった遠野は、まずその呼び名をやめさせた。そして、言うことを聞かなかった数人は、遠野の怪力を顔で受け止める羽目になった。遠野は『殴られても目を逸らすな』とアドバイスした。二人は結果的に友人同士となり、その関係は中学校時代に薄まっていって、高校に進学するのと同時に消えた。
再会したのは同窓会のときで、遠野は治美と結婚したばかりで、二十六歳になったばかりの『矯正途上』の男だった。稲場は、子供時代の面影を完全に置いてきたようだった。それどころか、体は鍛え上げられ、腕には刺青が覗き、稲場がどういう仕事で食い扶持を稼いでいるかは、誰が見ても明らかだった。遠野は、もしかしたら自分がなっていたかもしれない姿を稲場に映し合わせて、そのギャップに驚いた。
『名刺はないんだ。出したら捕まっちまうよ』
稲場はそう言って、今の自分に自信が溢れてたまらない様子で、快活に笑った。遠野も、治美という生涯の伴侶を見つけて、幸せに暮らしているということを報告した。稲場と連絡先を交換したものの、その人生はもう交差しないだろうと思っていた。
今、その稲場から携帯電話に着信が入っている。遠野はハンドルから左手を離して、助手席で震えている携帯電話を手に取った。通話ボタンを押すと、稲場の懇願するような声が流れた。
「マジでやめろよ」
「すまないな、稲場。この借りは返すから」
言いながら、本当にそんなことが可能だろうかと思う。どんどん田舎道になっていく上に、もう夜になってしまった。
遠野は、アルテッツァのシフトノブを三速に押し込んで、クラッチを繋ぎながら思い出していた。今から一年前。稲場は、遠野の依頼を快く引き受けた。それは『大島信介がまだ生きてるなら、見つけて殺してくれ』という、遠野が何年も頭の中で煮立たせてきた正義そのものだった。そして、それは当然のことのように実行された。写真で大島信介の変わり果てた姿も確認した。左目にぽっかりと穴が空いていて、銃で殺されたということを理解した。実行したのは、今見失いかけているプリウスを運転する女だった。何か不満があるわけではなかった。ただ、大島がどのように死んだのか、それをやり遂げた本人の口から聞きたかった。
復讐が終われば、治美は心の中に帰ってくると思っていた。しかし、実際にはもう一度死んだだけだった。その味の苦さと、自分で大島の最期を見届けなかった悔しさは、日が経つに連れて心を蝕んでいった。一週間前、遠野は空の依頼を稲場に伝えて、前と同じ女をまた寄越して欲しいと頼んだ。
「絶対にあの女と、直接接触するな」
稲場は念押しするように言った。遠野は電話を切った。プリウスが真っ暗な廃工場の中へ入って行き、ヘッドライトを消すのが見えた。手前にアルテッツァを停め、静かに下りる。どうやって話しかければいいのか、そこから考える必要があった。この工場が、あの女のアジトなのだろうか。遠野の頭の中に、少し漫画めいたフレーズが浮かんだ。鍵が開けっ放しになったプリウスの中には誰も乗っていなかったが、ドアをそっと開けると、香水の匂いが少しだけ残っていた。
出し抜けに、首元で風を切るような音が鳴った。咄嗟に振り返った目の前に、女が立っていた。すぐに、遠野は自分の首に何かが巻きつけられていることを悟った。それは大きなタイラップで、遠野の想像するよりも遥かに強い力で首元を隙間なく締め付け、動脈を圧迫していた。息が喉を通らなくなり、首を掻き毟りながら片膝をついた遠野の前に、姫浦はスマートフォンの画面を差し出して、タイマーをスタートさせた。
「あなたは、二分で死ぬ」
遠野は、首から手を離してその細い体を掴もうと手を伸ばしたが、姫浦は機敏に一歩下がった。そして、スーツのポケットから小さな鋏を取り出した。
「質問に答えたら、これをあげる」
それがあれば、タイラップを切って再び息を吸い込むことができる。遠野は頭で理解したが、息ができないのに答えられるはずがないということにも、同時に気づいていた。この女は、どの道自分を殺すつもりだと。姫浦は、表情を全く変えることなく言った。
「あなたは誰?」
答えられるはずもなく、遠野は意識が薄れるのを感じた。その時、弱まっていく思考の中に、命綱のようにひとつの考えが浮かんだ。携帯電話をポケットから取り出した遠野は、稲場の番号をダイヤルして発信し、姫浦に投げた。姫浦はその画面を見て首を傾げ、番号を確認すると手に取った。スピーカーモードにして、焦りの混じった稲場の声が発散されるのに任せた。
「遠野! これが最後だ。絶対にあの女には……」
「お知り合いですか?」
姫浦が言うと、回線が死んだように一瞬静かになった。稲場の声が幾分かトーンを落として、復活した。
「殺したのか?」
「いいえ。まだ途中です」
「今すぐやめろ」
作品名:Hidden swivel 作家名:オオサカタロウ