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彼女はいつだってマイペースだった。

 高校二年の夏休み、僕の学校は一応進学校の看板を背負っているので補習と言う名の通常授業が行われていた。
 溶けそうな教室で溶けそうな数学。
 制服のシャツを脱いでTシャツ一枚になっている奴や下敷きでべこべことしたぬるい風を得ている奴、熱中症予備軍の運動部が散らばるグラウンドをぼーっと眺めている奴、机に突っ伏している奴……夏の補習はかなり効率が悪いと思う。
 これなら平常の時間割を増やすか、いっそのことエアコンを導入した方がよっぽどマシだ。エアコン導入費用くらい、生徒の勉強の為、ひいては進学率の為ならばすんなり捻出出来ると思うのだが。
 かく言う僕も既に授業放棄していて、この後に控えている英語の内職をしていた。僕としたことが珍しく、英語の予習を忘れたと言うか……さぼってしまった。昨日インターネットで調べものをしていくうちについつい脱線してしまったからだ。ついでに言うと、数学は苦手なのでこの状況で身が入らないのが実状だ。
 教科書の英文を書き写し終わったので、机の下に電子辞書を隠して訳していく。僕は分厚い紙の辞書の方が好きだけれど、こういうときには文明の利器に限る。
 一段落ついたところで、僕は家から持参した何かのキャンペーンうちわで静かな風を送る。下敷きはノートの下敷きになって本分を全う中。
 片肘をついて黒板を見遣ると、席の順番に当てられたクラスメイトが問題と四苦八苦しているところだった。倉谷とススムと鈴木さん、か……今日は安全圏だな。
 数学の田辺みたいに判りやすい当て方をしてくれるとこちらも対処しやすいのだが、ランダムに当てるのが好きな先生の授業はいつもスリリングだ。今日の日付、最高気温、降水確率……それを更に足したり引いたり掛けたり割ったりされるともうお手上げ。英語のビーチャムは器用な日本語で器用に暗算してくれるんだよな……。
 あ、今日の数学、後で誰かに見せて貰わないと。
 ぼんやりと考えていると次の問題に移った。
「問7、大森」
「は、はいっ」
 当てられた彼女が慌てふためいているのは予習をしてこなかったからではない。内職の世界から引き戻されたからだ。
 僕のそれと違い、彼女の内職は公然のものとなっていて先生もそれを咎めない。
 依怙贔屓と言うなかれ、彼女は現在三年生の内容を勉強しているからだ――。
「ええと……」
 彼女は黒板をちらりと見てからぱらぱらと教科書をめくる。数秒後、椅子を引いて立ち上がり、黒板の前に出て行くとチョークを手に教科書を眺め、唐突に解答を書き殴り始めた。
 僕はこのときの彼女がとても好きだ。いや、好きとか言ってしまうと誤解を招くけれど――ともかく、その小柄な背中がとても格好良く見えて仕方ない。
 数学が出来る人間は宇宙人だと公言して憚らない僕が、彼女は宇宙人以上だと思う瞬間。
 答案を書き終え白い粉の付いた手を無造作に払いながら席に戻った彼女は、一応教科書を開いたまま自分の世界に戻って行く……のかと思いきや、教科書の下に出してあったノートを開いて黒板のそれと見比べている。
 既に自力で完成されたノート。
 クラスの誰もが――特に数学が天敵な人間が欲しがる代物だ。
「はい、正解……と」
 田辺が口にしても仕方のないことを言ったところでチャイムが鳴った。
 彼女は教科書とノートを机の中に放り込み、自分で買ったらしい三年生の参考書とノートに戻る。田辺が何やら言っているのもそっちのけで問題の続きを解き、数学教師もとっくに消えて休み時間も半分近く消費したところで机に突っ伏した。
 マイペースと言うか……フリーダムだよなぁ……。

 そして次のリーダーでは、さっきの悠々自適さは何処へ行ったと言わんばかりに必死で授業を受けている。
 誰もが均等な成績を取れる訳でもなし、得意科目も苦手科目もある。そして彼女が生粋の理系人間なのは重々承知していたが、このギャップは何なんだろう。他の理系友達とは、明らかに何かが違う。でも、その正体が何なのかが判らない。
 英語好きな僕は先程予習を済ませたノートに先生の解説を書き込みながら、いつものように斜め前の席に座る彼女を観察していた。

「それってやっぱり大森に惚れてんじゃねぇの?」
「いつも目で追ってるし」
 体育で男女別になった途端、これだ。
「違うよ……」
 水着に着替えながら話し続ける二人を視界に入れまいとしながら、僕は否定する。
 バスタオルを肩に掛けたススムが、制服姿の僕に人差し指をびしぃっと突き付ける。
「日々勉強に追われ捌け口のない性欲を持て余している若くて健康な高校男子がプラトニックなど片腹痛いわ!」
「だから違うって。……今日は水泳休むし、健康じゃないし」
「サボリか」
「泳ぎたい気分じゃない」
「それをサボリと言うんだ愚か者!」
「単位落とさない程度にね」
「くっ、狡猾な奴め」
「何とでも言え」
 最後の方で何となくススムのペースに引きずられたのが悲しい。

 ……制服に裸足で、灼けるコンクリートのプールサイドに行くと、見学者スペースに彼女がいた。
 セーラー服に、裸足。
 背後でからかってきそうなススムの顔面に裏拳を入れ、僕は彼女のところへ向かった。
 見学者はプールサイドの隅に設営されたテントの中でぼーっとしているか、教師の雑用を押し付けられる。今日の見学者は二クラス合同で四人。僕以外は女子ばかりだ。
 僕はテントの隅っこで先生から預かった出席簿を持て余していた。ついでに自分のサボリ数をチェックしておくのも忘れない。
「……どっか調子悪いの?」
 彼女に不意に話し掛けられて、僕はとても変な顔をした……と思う。女子三人で二人が仲良くし始めたので、必然的に僕が話し相手に選ばれたらしい。
「い、いや……あー、気分が。水泳向きじゃなかったから適当に」
「なんだ。本気病気とかじゃなくて良かったね」
 あ、笑った。
「そう言う大森は? 風邪?」
「女子が水泳休むのは大抵理由は一つだよ」
「…………。あ、ごめ……」
「ははは、こっちこそ逆セクハラみたいなこと言ってごめん。でも前の子たちの片割れは怪我して入れないみたいだし」
「ああ、そうなんだ」
「……まぁ私はソレを理由に使ったサボリなんだけどね」
 彼女から「サボリ」と言う単語を聞くとは思わなかった。思わず顔を凝視する。
「女子的にはこういったサボリ方があるですよ。……やりすぎると周期でバレるけど」
「……直球な事情をどうも」
 赤くなった顔を出席簿で上手く隠しながらそれだけを言った。
 教室にいるよりもより大きく響く蝉の声のお陰で、残りの見学者には僕たちの会話はあまり聞こえていないようだ。
 ドルビーサラウンドよりも気合いの入った蝉の大合唱、乱反射する水面。テントの中とは言え、うだるような暑さ。
 半袖のセーラー服から覗く二の腕。
 ……あー、夏なんだな、と強制的に認識させられる。
「私ねー、学校の水泳って嫌いなんだー」
 彼女が見つめる先では、みんなが順にクロールで泳いでいた。
「ん?」
作品名:My (s)pace 作家名:紅染響