第三章 策謀の渦の中へ
自らの両手が犯した罪の重さが、掌の上だけでは収まりきれず、指の間からこぼれ落ちて止まらない――そんな錯覚をメイシアは覚える。
「すみ、ません……」
自然と、言葉が漏れた。
タオロンの命を駆け引きの駒にした。彼の生命を脅かし、恐怖を与えた。それが善か悪かと問われれば、今までの彼女の人生からは、悪だという答えしか導き出せない。
だから、決してやってはいけなかったこと――……?
メイシアの澄み渡った湖面のような瞳から、透明な涙が流れた。口元は、嗚咽を漏らさぬよう、強い意志の力で結ばれている。
「藤、咲……?」
彼女に向かって、罵声を浴びせようとしていたタオロンは、突然のことに狼狽した。無骨な彼は女の涙に弱かった。
「けれど、……たとえ、あなたに恨まれても……」
細い声が響く。
「……それがどんなに罪でも、私は何度でも同じことを……します。――ルイフォンのために……!」
結果も伴わなかった。まったくの無意味だった。
けれど、この行動に……。
――後悔はない……!
メイシアは、タオロンの黒い瞳を臆することなく見返した。
「お前……」
今にも壊れそうな、華奢な泥まみれの少女に毅然と言い放たれ、タオロンは毒気を抜かれたように、ぽかんと口を開けた。
彼女が言っていることは自分本位で、彼にとっては許しがたいことである。けれど、彼女の一途な気持ちは、むしろ彼には清々しくさえ思えた。立場的には敵対せざるを得ないが、心情的には近いものを感じたのだ。
「……貴族(シャトーア)の小娘というのは、面白いですね。何を言い出すか、見当もつきません」
「〈蝿(ムスカ)〉……!」
タオロンは体を巡らし、怒りの矛先を変えた。
「ずっと、聞いていた、ぞ」
刈り上げた短髪を〈蝿(ムスカ)〉に向け、メイシアに向けていた分の怒りも上乗せして、タオロンは憤りをたぎらせる。
「それは、そうでしょうね。クラーレは神経毒。意識は、はっきりしていたはずです」
「おまっ……」
「何が言いたいのですか? 小娘に頭を下げて、あなたを助けるべきだったとでも?」
〈蝿(ムスカ)〉は、ぷっと吹き出した。白髪頭を揺らし、口元に手を当てて嗤う。
「あり得ませんね。あなたは襲撃に失敗した挙句、非力な子猫に縛り上げられた、愚かなクズです。斑目の一族でもない私が、助けてやる義理はないでしょう?」
「お前の、助けなんて、期待してねぇよ! けど、よ。藤咲、メイシア、煽ったろ!? 俺を襲わせて、何、考えて、やが……る」
怒号を上げて荒れ狂うタオロン。しかし、〈蝿(ムスカ)〉は彼のことは相手にせず、ずっといたぶり続けている小さなか弱き小鳥に声をかけた。
「貴族(シャトーア)のお嬢ちゃん。あなたは、致命的な勘違いをしていたんですよ。食客が主人の一族に従うべき? そんな決まりはないのです。身分に守られてきたあなたには、理解できないかもしれませんがね?」
〈蝿(ムスカ)〉はおもむろに、足元に横たわるルイフォンの襟首を掴んだ。そのまま無造作に彼を引きずりながら、メイシアのほうへと向かう。
人をひとり引きずっているとは思えないような足取り。相変わらず足音はなく、ルイフォンの体が地面と擦れる音だけが響く。
彼女から数歩離れた位置まで来ると、〈蝿(ムスカ)〉は、ルイフォンの襟首から手を放した。どさり、と重みのある音を立て、支えを失ったルイフォンの上半身が砂を巻き上げる。彼の口から、苦しげな呻きが漏れた。
「ルイフォン!」
メイシアは叫び、這うようにして彼の元へ寄ろうとした。
その鼻先を、ざらりとした砂粒が遮る。今まで音を立てなかった〈蝿(ムスカ)〉の靴先が地を鳴らし、彼女の行く手を阻んだ。
憎悪の視線で、メイシアは〈蝿(ムスカ)〉を見上げると、彼は嬉しそうに嗤った。
「いい顔ですね。惨めな弱者の顔です」
「……っ」
「あなたは私を侮辱した――これでも私、怒っているんですよ」
そう言って、〈蝿(ムスカ)〉は地面に横たわるルイフォンの腹を踏みつけた。ルイフォンは激痛に、声にならない声を上げる。
「ルイフォン!!」
編んであった髪はすっかりほどけ、癖のある長髪が砂地に広がる。猫のような好奇心溢れた瞳は閉じられ、別人のようなルイフォンの姿に、メイシアは涙を浮かべる。
「あなたに対しては小僧を、小僧に対してはあなたを傷つけるのが効果的。そういう関係があって初めて、脅迫というものは成り立つんですよ。少しは勉強になりましたか?」
勝ち誇ったように〈蝿(ムスカ)〉が嗤う。真昼の太陽を背にした〈蝿(ムスカ)〉の黒い影は、残忍な悪魔そのものだった。
「やめろよ」
太い声が響いた。両手を後ろ手に縛られたまま、憤怒の表情を見せるタオロンがゆっくりと立ち上がった。
怒気を放ち、まるでメイシアを庇うかのように、彼は、彼女と〈蝿(ムスカ)〉の間に割って入る。まだ、わずかに麻痺が残るのか、踏みしめた足元は多少おぼつかないが、憤激の言葉は滑らかだった。
「おやおや。斑目のあなたが、鷹刀の味方をするのですか?」
「俺は、胸糞悪ぃことが嫌いなだけだ」
「ほぅ? ではどうするおつもりで?」
タオロンは、くっ、と唇を噛んだ。
「何も考えていませんでしたね。だからあなたはイノシシ坊やなんですよ」
「黙れ……食客風情が!」
「あなたは、斑目の総帥には逆らえない」
「……逆らうわけじゃねぇよ。けど今回、鷹刀ルイフォンは関係ねぇ! …………藤咲メイシアは……俺が一刀のもとに殺す。それでいいだろ!」
赤いバンダナの下の額に皺を寄せ、タオロンが言い切った。
しばし考えこむように押し黙った〈蝿(ムスカ)〉だったが、「いいでしょう」と、ゆらりと身を翻す。音もなくタオロンの背後に回り、刀を一閃した。
「……?」
タオロンの狼狽と共に、ぱらり、と青い飾り紐が地面に落ちた。彼の両腕を拘束していた、ルイフォンの髪結いの紐である。
「所詮、私は『食客風情』ですから、あとは斑目のあなたにお任せしましょう。総帥の命によって、罪もなき、か弱き娘を殺すがいい」
〈蝿(ムスカ)〉は嗤いながら、タオロンの大刀を拾い上げ、持ち主に放った。
ずしりと重い刀を、タオロンは無言で受け止める。その質量に、傷つけられた右腕の傷口が新たな血を流したが、彼は奥歯をぎりりと噛み締めただけであった。
それを見届けた〈蝿(ムスカ)〉は、場所を譲るべく、メイシアの脇を抜ける。その際――すれ違いざまに、彼女にぼそりと漏らした。
「……〈蛇(サーペンス)〉とあなたの間で何があったのか、非常に気になるんですけどね。仕方ありません」
「え……?」
メイシアが疑問の声を上げたが、彼はそのまま通りすぎ、高みの見物を決め込むべく、建物の外壁に体を預けた。
「藤咲メイシア……」
タオロンの刈り上げた短髪から、玉の汗が流れる。乾いた風が吹き抜け、熱を奪い、彼の肌を冷やした。
「なんか、さっきと立場が逆になっちまったな」
切なげで真っ直ぐな瞳が、メイシアを捉えていた。赤いバンダナの下の、人の良さそうな小さな黒い瞳。だが、その上にある太い眉は、意志の強さを示している。
作品名:第三章 策謀の渦の中へ 作家名:NaN