海亀の浜
1.本能
【本能】
生まれて初めて嗅いだ匂いは潮の匂いだった。
僕は海亀の子、母親が涙を流しながら砂の中深くに産み落とした卵から、たった今孵化したばかりだ。
まだ目はぼんやりしていて良く見えないが、沢山のきょうだいたちも同じように穴から這い出して来ているのはわかる。
潮の香りを頼りに海を目指す。
これは僕たちのDNAに刻まれた本能、そして生まれて初めての大きな試練がそこにある。
必死で海を目指す僕たちを海鳥たちが狙う。
海にたどり着くまでの僕たちほど捕獲し易い獲物はまたとない。
たった今、僕の隣で一緒に海を目指していたきょうだいが声も無く攫われて行った。
大きな羽がたてるバサバサという羽音、僕たちを鷲掴みにする鋭い爪……。
とにかく生き延びるためには一秒でも早く海に辿り着かなくてはならないと本能が僕を急かす。
海にたどり着いたとしても危険が全て去るわけではないが、陸上にいるよりも遥かに素早く行動できる、まずは海へ、とにかく海へ、早く海へ……。
ばさっ。
ばさ、ばさ、ばさっ。
その時、僕は深い溝に落っこちた。
きょうだいたちも次々と落っこちて来る。
這い出せないわけじゃない、お母さんが卵を埋めた穴の中からだって這い出せたんだから。
だけど、それは簡単なことじゃない。
しかも、穴から這い出す時と違って外敵に晒されているのだ。
一匹、二匹、三匹、四匹、五匹……。
前進もままならなくなった僕たちを容赦なく鳥が攫って行く。
僕は必死でもがいた、早く海へ……少しでも早く……。
しかし、その時、僕の体もふわっと浮いた……。
「ああ、もう、誰だよ、こんな所でサンドバギー走らせた奴は、これじゃみんな鳥にやられちゃうよ」
僕を掬い上げたのは鳥じゃなくて人間だった。
その人間は僕をぽん、と波打ち際まで軽く抛ってくれて、僕は何とか無事に海に辿り着いた。
振り返って見ると、その人間は砂浜に膝をついて、きょうだいたちを次々と掬い上げて海へ抛ってくれている。
追いついて来たきょうだいたちと沖を目指す時、別の人間の声がした。
「おーい!何やってんだよ、先に行っちゃうぜ」
「待ってくれよ、海亀の赤ん坊が大変なんだよ」
「え? どれどれ?……ああ、本当だ、このままじゃ全滅だな」
「だろう? 手伝ってくれよ」
「ああ、わかった……まったくお前は動物に優しいよな、いつか亀が恩返しに来るんじゃないか? 竜宮城に招待されたりしてな」
「ははは、だといいけどな」
彼はそう言って笑ったが、懸命に泳ぐ僕たちの脳にはその優しい声と笑顔が深く刻まれていた……。