桟敷席
指定席
大学の近く、小さなお店。オレンジペコのミルクティー。色素の薄い紅茶は、ミルクティーにすると優しい色になる。一緒に頼む『日替わりケーキ』は、作った人がニコニコとして隣に立って見守ってくれているような優しい味がする。
ドアを開け、「いらっしゃいませ」の声に会釈をすると、カウンターの一番奥、こっそり私の指定席と呼んでいる席に座り、図書館で借りてきた本をカバンから取り出す。借りて帰っても、家に帰ると何かしらやる事が出てきて読めなくなる。借りてきた気持ちが薄れる前にここで読んで、その日のうちに返してから帰宅するようになっていた。
後ろが洗面所の壁になっていて他の席より狭いけれど、落ち着いて本を読むことのできる席。
後ろから覗かれる心配もないので、毎週火曜日のお昼に更新されている無料のネット小説の続きをちょっと読むのに最適だった。
『高身長、高学歴、高収入。誰もが見とれる超美形。優しくて仕事が出来て、流行りのデートコースに詳しくて。美味しいレストランを知っていて、選ぶワインも外さない、女性の扱いも上手いスーパーダーリン』。俗に「スパダリ」とか「スパダー」と呼ばれる完璧すぎる彼と、ごく普通のOLのドタバタ恋愛。
ヤキモチを妬いた先輩にいじわるされてもめげない純粋なヒロインと、ダーリンの溺愛っぷりに、周りのみんなは呆れて彼女の事を守ったり、二人の愛を応援するようになる。
花束に花言葉を添えるようなスーパーダーリンとの恋愛に憧れるなんて、夢見る乙女すぎるって笑われてしまうだろうか。
それだけじゃない、面白さがあるんだけどな。
--この席も、本当の魅力は他にあるんだ。
大学に入って少し経ち、校舎の配置図を見なくても移動できるようになった頃、借り過ぎて重たい本を座って読む場所が欲しかった。
駅前のコーヒーショップに何度か入ってはみたものの、レジの前で呪文のような注文をする時はいつも緊張する。
優しい店員さんは、感じのいい笑顔で私の注文の足りない部分を「ホットですか、サイズはいかがしますか?」と上手に聞いてくれるけれど、後ろに人が並んでいる中、スマートに注文できないのは、なんだか気まずかった。
やっと席に座り、周りを見渡す余裕が出てくると、今度は、真面目にレポートをやっている人の隣で趣味の本を読むのは、なんだかいけないことのような気がして、全然頭に入ってこなかった。
その日、本を読むのを諦めて大学の図書館に本を返しに行く道筋で、このお店を見つけた。
私のアパートは大学から徒歩圏内で、駅から大学に向かったことがほとんど無かったので知らなかったのだが、店の中には同年代くらいの女の子が何組かいて、初めてでも入りやすい雰囲気があった。
どんなケーキがあるのかと興味本位で覗いてみると、ガラスのドアのその向こう、口笛でも吹きそうな調子で楽しそうにショーケースを覗き込む赤いタイのパティシエ服を着た店員さんがいた。
あの日から--。
読んでいた本から目を上げると、レジの横の台で何か帳簿の様なものを書いている優しげな横顔が見えた。中肉中背、人当たりがソフトで、お客さんとも気軽に話す。整っているわけではないけれど、いつもちょっと笑っているような人好きのする顔が、魅力的だった。
カウンター席はショーケースの横から奥へ伸び、ショーケースの裏側は、角度的にこの席からしか見えない。本人、ここから見えてること、知らないだろうなぁ。
ひと段落したのか、「よし!」と声を上げペンを置いたので、見ていたことを気づかれないように視線を素早くカップに落とす。
時々見れる、無意識なこういう仕草が、かわいい。
あのね、この店の、桟敷席なんですよ、ここ。アナタのお仕事、全部見えちゃう、独り占め席なんです。でも、お願い。気づかないで。
テーブル席に近づいて空いたコップに水を注ぐ彼に、客の片方が話しかける。
「あ、お水。ありがとう。マスター、このアップルパイ美味しいね」
ゆるいカーブを描きながら揃う明るい色の前髪の間からのぞく平行眉と、頬を中心に全体的にピンクに染まる、流行りのメイク。黙っていると女の子らしいふわっとした印象ながら、意外にもニカッと笑うのが、なんだか愛らしい。
「ありがとう、マスターじゃなくてパティシエだからね、パティシエ。マスターってのは髭生えてるでしょ」
女の子が「髭?そこ?!」と言うと連れの女の子もくすくす、と笑った。
「ねぇねぇ、マスターっていくつなんですか?」
「31歳だよ、大人でしょう」
「え!思ってたより若くない!」
「結婚してるの?」被せるようにされる質問に
「いやいや、独身だよ。ここ何年か、彼女だっないんだから。こんなにイケメンなのに。」
「イケメーン!」と繰り返して弾けたように笑う2人。
「えー、じゃあ、私、ケーキ好きだからマスターの彼女になってあげます!」
ドキッとする言葉に振り向くと、ニット帽からはみ出た耳元で大きなタッセルピアスがふわっと揺れる。
先ほどのピンクメイクの子が、おどけて肉感的な唇をすぼめた。
「やだマスター可哀想!ケーキ作らされるだけ作らされて、すぐ捨てられた上に、プライベート暴露されそう!」
「あー、私服がダサいとか、カラオケで何歌うとか学校中に筒抜けだ?」
「そうそう、この子そういうタイプなんですよ~気をつけてね、マスター」
「ちょっとどういう事よ~やめてよぉ~!変なイメージつけないでよぉ!」
「ありがとう、危うく騙されるところだった~」
笑いながらテーブルを離れる、楽しそうな横顔。客を自然にリラックスさせるのも、才能だな、と思った。
31歳、独身。聞きたかった言葉が頭の中で反響する。危うく、干支ひと回りしちゃう所だった。でも、ギリギリ、恋愛範囲内だよね?
それとも、もう、子供だって思われてるかな?
望み、ないのかな?
2/14、今日はバレンタインデー。喫茶店スペースはいつもより人が少ない。
そりゃそうだよね、今日ばかりは自分で作った甘い物の試作を片付けないといけないのだから。かくいう私も、家に帰れば試作品の残骸が待っている。もちろん、カバンの中には昨日夜作った手作りチョコ。甘すぎず、苦すぎず。
本職の人にあげるのは少し気が引けるけれど、自分なりに頑張った。包装は何度もやり直して結局デパートのお中元みたいな包み方になってしまったけれど。
注文を取ってくれたり、紅茶を持ってきてくれたり、何度かある渡せるタイミング全部を使い切り、ためらっているうちに、閉店時間が近づいてきてしまった。残すは、会計した後のみ。
あと1人。
今日渡せなかったら昨日の努力が報われない。頑張れ、私。
あのお客さんが帰ったら。
決めたのと同時に、お客さんは財布を持ってレジに向かってしまった。
ちょっと待って、シュミレーション出来てない……!焦って、何故か立ってしまった。
大学の近く、小さなお店。オレンジペコのミルクティー。色素の薄い紅茶は、ミルクティーにすると優しい色になる。一緒に頼む『日替わりケーキ』は、作った人がニコニコとして隣に立って見守ってくれているような優しい味がする。
ドアを開け、「いらっしゃいませ」の声に会釈をすると、カウンターの一番奥、こっそり私の指定席と呼んでいる席に座り、図書館で借りてきた本をカバンから取り出す。借りて帰っても、家に帰ると何かしらやる事が出てきて読めなくなる。借りてきた気持ちが薄れる前にここで読んで、その日のうちに返してから帰宅するようになっていた。
後ろが洗面所の壁になっていて他の席より狭いけれど、落ち着いて本を読むことのできる席。
後ろから覗かれる心配もないので、毎週火曜日のお昼に更新されている無料のネット小説の続きをちょっと読むのに最適だった。
『高身長、高学歴、高収入。誰もが見とれる超美形。優しくて仕事が出来て、流行りのデートコースに詳しくて。美味しいレストランを知っていて、選ぶワインも外さない、女性の扱いも上手いスーパーダーリン』。俗に「スパダリ」とか「スパダー」と呼ばれる完璧すぎる彼と、ごく普通のOLのドタバタ恋愛。
ヤキモチを妬いた先輩にいじわるされてもめげない純粋なヒロインと、ダーリンの溺愛っぷりに、周りのみんなは呆れて彼女の事を守ったり、二人の愛を応援するようになる。
花束に花言葉を添えるようなスーパーダーリンとの恋愛に憧れるなんて、夢見る乙女すぎるって笑われてしまうだろうか。
それだけじゃない、面白さがあるんだけどな。
--この席も、本当の魅力は他にあるんだ。
大学に入って少し経ち、校舎の配置図を見なくても移動できるようになった頃、借り過ぎて重たい本を座って読む場所が欲しかった。
駅前のコーヒーショップに何度か入ってはみたものの、レジの前で呪文のような注文をする時はいつも緊張する。
優しい店員さんは、感じのいい笑顔で私の注文の足りない部分を「ホットですか、サイズはいかがしますか?」と上手に聞いてくれるけれど、後ろに人が並んでいる中、スマートに注文できないのは、なんだか気まずかった。
やっと席に座り、周りを見渡す余裕が出てくると、今度は、真面目にレポートをやっている人の隣で趣味の本を読むのは、なんだかいけないことのような気がして、全然頭に入ってこなかった。
その日、本を読むのを諦めて大学の図書館に本を返しに行く道筋で、このお店を見つけた。
私のアパートは大学から徒歩圏内で、駅から大学に向かったことがほとんど無かったので知らなかったのだが、店の中には同年代くらいの女の子が何組かいて、初めてでも入りやすい雰囲気があった。
どんなケーキがあるのかと興味本位で覗いてみると、ガラスのドアのその向こう、口笛でも吹きそうな調子で楽しそうにショーケースを覗き込む赤いタイのパティシエ服を着た店員さんがいた。
あの日から--。
読んでいた本から目を上げると、レジの横の台で何か帳簿の様なものを書いている優しげな横顔が見えた。中肉中背、人当たりがソフトで、お客さんとも気軽に話す。整っているわけではないけれど、いつもちょっと笑っているような人好きのする顔が、魅力的だった。
カウンター席はショーケースの横から奥へ伸び、ショーケースの裏側は、角度的にこの席からしか見えない。本人、ここから見えてること、知らないだろうなぁ。
ひと段落したのか、「よし!」と声を上げペンを置いたので、見ていたことを気づかれないように視線を素早くカップに落とす。
時々見れる、無意識なこういう仕草が、かわいい。
あのね、この店の、桟敷席なんですよ、ここ。アナタのお仕事、全部見えちゃう、独り占め席なんです。でも、お願い。気づかないで。
テーブル席に近づいて空いたコップに水を注ぐ彼に、客の片方が話しかける。
「あ、お水。ありがとう。マスター、このアップルパイ美味しいね」
ゆるいカーブを描きながら揃う明るい色の前髪の間からのぞく平行眉と、頬を中心に全体的にピンクに染まる、流行りのメイク。黙っていると女の子らしいふわっとした印象ながら、意外にもニカッと笑うのが、なんだか愛らしい。
「ありがとう、マスターじゃなくてパティシエだからね、パティシエ。マスターってのは髭生えてるでしょ」
女の子が「髭?そこ?!」と言うと連れの女の子もくすくす、と笑った。
「ねぇねぇ、マスターっていくつなんですか?」
「31歳だよ、大人でしょう」
「え!思ってたより若くない!」
「結婚してるの?」被せるようにされる質問に
「いやいや、独身だよ。ここ何年か、彼女だっないんだから。こんなにイケメンなのに。」
「イケメーン!」と繰り返して弾けたように笑う2人。
「えー、じゃあ、私、ケーキ好きだからマスターの彼女になってあげます!」
ドキッとする言葉に振り向くと、ニット帽からはみ出た耳元で大きなタッセルピアスがふわっと揺れる。
先ほどのピンクメイクの子が、おどけて肉感的な唇をすぼめた。
「やだマスター可哀想!ケーキ作らされるだけ作らされて、すぐ捨てられた上に、プライベート暴露されそう!」
「あー、私服がダサいとか、カラオケで何歌うとか学校中に筒抜けだ?」
「そうそう、この子そういうタイプなんですよ~気をつけてね、マスター」
「ちょっとどういう事よ~やめてよぉ~!変なイメージつけないでよぉ!」
「ありがとう、危うく騙されるところだった~」
笑いながらテーブルを離れる、楽しそうな横顔。客を自然にリラックスさせるのも、才能だな、と思った。
31歳、独身。聞きたかった言葉が頭の中で反響する。危うく、干支ひと回りしちゃう所だった。でも、ギリギリ、恋愛範囲内だよね?
それとも、もう、子供だって思われてるかな?
望み、ないのかな?
2/14、今日はバレンタインデー。喫茶店スペースはいつもより人が少ない。
そりゃそうだよね、今日ばかりは自分で作った甘い物の試作を片付けないといけないのだから。かくいう私も、家に帰れば試作品の残骸が待っている。もちろん、カバンの中には昨日夜作った手作りチョコ。甘すぎず、苦すぎず。
本職の人にあげるのは少し気が引けるけれど、自分なりに頑張った。包装は何度もやり直して結局デパートのお中元みたいな包み方になってしまったけれど。
注文を取ってくれたり、紅茶を持ってきてくれたり、何度かある渡せるタイミング全部を使い切り、ためらっているうちに、閉店時間が近づいてきてしまった。残すは、会計した後のみ。
あと1人。
今日渡せなかったら昨日の努力が報われない。頑張れ、私。
あのお客さんが帰ったら。
決めたのと同時に、お客さんは財布を持ってレジに向かってしまった。
ちょっと待って、シュミレーション出来てない……!焦って、何故か立ってしまった。