師匠と弟子と 1
「バカヤローてめえなんざ噺家辞めちまえ!」
師匠の小言と同時に扇子が俺の額目掛けて飛んで来る。扇子は思い切り俺の額にぶつかった。
「今日はもう辞めだ。もっと稽古して、ちったぁマシになったら見てやる。もう寄席に行く時間だ」
師匠はそう言って壁の時計を見ると大きな声で
「小ふな!」
と弟弟子を呼んだ。
「はい師匠支度は出来ています」
小ふなは師匠の高座用の着物が入ったカバンを手に下げていた。俺と違ってこいつは要領が良い。全てに渡って不器用な俺とは大違いだ。
俺の名は小金亭鮎太郎。昨年やっと二つ目になった噺家だ。師匠は小金亭遊蔵。古典落語の名手でその名は全国に鳴り響いている。長い間弟子を取らなかったのだが、何故か数年前から弟子を取るようになった。俺はその最初の弟子で所謂、総領弟子と言う訳だ。最初の弟子だからか、俺に対しては厳しく、見習い一年、前座を通常なら二年ぐらいなのだが三年やらせられた。そしてやっと二つ目になったのだった。
落語の世界では前座は人に数えて貰えない。未だ修行期間中なのだ。寄席の様々な雑用をやったり師匠の身の回りの世話なんかをする。だから自分の自由になる時間などは無いのだ。それら諸々の事から開放されるのが二つ目と言う訳である。寄席に出られるし、羽織を着る事も許される。その代わり、前座の頃は先輩の噺家が小遣いをくれたり、落語会の前座に呼ばれればその報酬も貰えるが、二つ目は自分で稼がないとならないのだ。だから二つ目になったばかりの頃は殆どの噺家が貧乏になる。俺も仕事が無く、スケジュールが空白だったが、最近は同期の仲間と小さな落語会をしているので、何とかなっている。
師匠が小ふなと一緒に出かけてしまうと家の中は静かになった。俺や小ふなが居ると師匠は年中小言を言っている。シーンとなった家の中を見渡していると師匠のお嬢さんの梨奈ちゃんが二階から降りて来た。
「随分怒られていたわね」
梨奈ちゃんは高校三年生で、既に進学する大学も決まっている。何でもかなり優秀で高校でもトップクラスだそうだ。師匠はその点が自分とは余りにも似ていないので、一時は女将さんが浮気して出来た子だと思った時期もあったらしい。そんな疑惑を感じた女将さんは
「呆れた。顔を見てごらんよ。あんたにそっくりでしょう」
そう言ったそうだ。師匠は学校の成績は大した事無かったそうだが、かなりの色男で若い頃は本当に持てたらしい。寄席の楽屋口には若い娘が師匠の出待ちをしていたそうだ。だから梨奈ちゃんはかなりの美形だ。それに可愛らしさも兼ね備えている。共学ならさぞやモテるだろうと思うのだが彼女の高校は女子校で、それも風紀にはかなり煩いので有名だった。
「無理無いですよ。だって今日で未だ四回目ですから」
「あら、四回目にはちゃんと話せないとならないのでしょう」
そうなのだ。師匠の稽古の付け方は昔のやり方で、まず三回師匠が最初から最後まで話してくれる。こちらはその間にそれを覚え、四回目にはきちんと話せないとならないのだ。これを我々は「三遍稽古」と言うのだ、勿論録音などはさせて貰えない。今時殆どの師匠は録音OKで中には最初から録音された音源をくれて「覚えたら来なさい」と放任主義の師匠も大勢居る。だがウチの師匠は昔ながらのやり方を変えはしない。
「精神を統一して真剣にやれば覚えられる」
そう言う考え方なのだ。
そして師匠の前でちゃんと演じられて認められたらこれを「上がる」と言うのだ。この許可を貰えば寄席でも何処でも演じて良いのだ。だから我々はこれを目指すのだ。
「聞こえたから聴いていたけど、もしかして、私の方が上手なんじゃない?」
梨奈ちゃんは半分楽しそうな表情をしながら、そんな事を言う。明らかに俺をからかっているのだ。未だ十八歳なのに六つも年上の俺をからかっているのだ。だが、恐らくこの噺に関しては梨奈ちゃんの方が上手いかも知れない。なんせ門前の小僧習わぬ経を読む。では無いが物心付いた時から落語を聴いているのだ。あらかたの噺は覚えてしまっている。おまけに本人に才能があるから始末に悪い。
「勘弁して下さいよ」
そう言うと梨奈ちゃんは
「ゴメンゴメン傷ついちゃった?」
そう言ってまた嬉しそうな表情を見せるのだ。実は俺は梨奈ちゃんのこの表情も堪らなく好きなのだ。
俺が入門した時、梨奈ちゃんは小学校の六年生でそれはそれは美形の少女だった。この頃にはもう父親離れしていて、寂しげな顔をした師匠が印象的だった。
「良かったらあたしに聴かせてよ」
いつものが始まったと俺は思った。梨奈ちゃんは何故か俺の下手な噺を聴きたがるのだ。上手くなった噺は聴きたく無いらしい。リクエストが来るのは何時も下手な噺ばかりだ。
「笑わないで下さいよ」
最初にそう断ってから噺を始める。二度目だからか、あるいは師匠の前では無いからか、かなりスムーズに噺が出て来る。何でこう出来なかったのだろうか。
「……と言う一席でございました」
サゲを言って頭を下げる。
「出来たじゃん。下手だけどちゃんと出来たじゃん」
手をパチパチと叩きながら梨奈ちゃんが上機嫌で言う。
「出来ましたね。何故か師匠の前だと駄目なんですよね」
「仕方ないね。それが弟子って言うものなのかもね」
そう言って階段を上がって自分の部屋に帰ろうとした時に振り向いて
「これ義理チョコ。今日は十四日だから」
そう言ってピンクのリボンに包まれたハート型のチョコを俺に手渡してくれた。毎年義理チョコを貰っているがホワイトデーのお返しが結構大変なのだ。今年は何が良かろうかと考えていると
「来月のお返しには、この噺で師匠のからOKを貰うこと。それが条件よ」
そんな事を言って来た。一ヶ月あるとは言え、師匠のOkを貰うのは並大抵では無い。高いお菓子を買う方が楽だと思った。
「あんたも噺家の端くれなら、幼気な少女の頼みぐらい叶えなさいよ」
そんな事も言う。梨奈ちゃん、あんたにとって師匠は甘い父親かも知れないけど、俺にとっては神にも等しい存在なんだから。
そう口に出かかって言葉を飲み込んだ。俺も噺家だ。それに小金亭遊蔵の一番弟子だ。やってやろうじゃ無いかと気持ちを切り替えた。
「判りました。やります。きっと師匠から『上がり』を貰います」
そう言い切ると梨奈ちゃんは嬉しそうに
「うん。それでこそ男だね。頑張ってね。『上がり』を貰ったら私からも良いものをあげるから」
梨奈ちゃんの言う「良いもの」とは何だろうか? 気にはなったがここは稽古に集中した。仲間との落語会でも暇さえあれば稽古をしたし、暇な時は川の土手に出て腹から声を出して稽古をした。そして一月が瞬く間に経ってしまった。
その日、師匠にお願いして出来を見て貰う約束を取り付けた。午前中の寄席に出かける前なら良いとOKを貰った。
座布団に座っている師匠と相対して自分は畳の上に直に座る。
「よろしくお願いいたします」
そう断ってから噺に入る。
「良く信心なんてと申しますが……」