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笑いの神

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満員なら三〇〇人以上は入ろうかという客席にお客は半分ほど……それでも平日なら良い方だと思った。 
 夏の寄席は冷房が効いているとはいえ、高座の上はライト等の影響で客席よりも数度気温が高い。最初は収まっていた汗も噺の最後の方では自然と汗が額に浮かんでいた。それを手元に置いたまんだら(手ぬぐい)で押さえると、噺の最後のオチを言って頭を下げて高座を降りた。高座の袖に戻る俺にパラパラと拍手が追って来た。まるで終ったことを喜んでいる感じがした。 俺の名は春光亭亮太。昨年、苦節一六年の末にやっと真打になったばかりだ。高座返しをする前座が袖で待っていて
「お疲れ様でした」
 と声をかけてくれた。もとより本音ではない、儀式みたいなものだ。楽屋に帰ると先輩や兄さん達に
「お先に勉強させて戴きました」
 そう挨拶をする。そう、これも儀式みたいなものだが、寄席は勉強の場なのだ。ワリと呼ばれる出演料も驚くほど少ないし、うっかりタクシーなんかで通えば足が出てしまう。落語会や自分の会では自分贔屓の客しか来ない。どうしても笑いに対して甘くなる。だが、寄席はそうではない。自分を聴きに来た客以外に自分の芸を見せることが修行に繋がるのだ。そんな客を笑せることが出きたら一人前さ。今日も半分は俺の噺を聴いているのかいないのか反応が薄かった。
 楽屋の前座に手伝って貰い着替えを始めると、他の一門の先輩が
「今日は良かったんじゃないの? 少しずつだけど上手くなってるよ」
 そう褒めてくれた。この兄さんは俺が入門した時に「立前座」と呼ばれる前座では一番上の先輩だった。何も知らない俺に色々な寄席のしきたりを教えてくれた。ありがたい……。
「ありがとうございます!」
「でも同期にあいつが居るからやり難いよね。まあ俺の一門だけどさ」
「はあ……」
 あいつとは俺と同期で入門した奴で享楽亭祐輔と言う奴だ。大学を卒業して師匠春光亭陽太に入門した俺と違い祐輔は大学を中退して享楽亭遊楽師匠に入門した。
 享楽亭遊楽と言えば落語界では名門中の名門で、代々の遊楽と言えば皆落語の歴史に残る名人ばかりだ。当代もその名声は日本中に響き渡っている。
 当然入門志願者も多いが、一門の決まりで数ヶ月見習いをさせて見込みがなければ辞めさせられる。だから祐輔は師匠の目に留まったのだ。先ほど俺に声をかけてくれた兄さんは祐輔の兄弟子である。祐輔は、やはり昨年俺と同時に真打に昇進した。それも、当初は一人昇進を打診されていたのだが、師匠遊楽師がわざと二年ほど昇進を遅らせたのだ。一人昇進とは抜群の芸がなければ勤まるものではない。その辺を師匠が考慮して昇進を送らせてまで勉強させたのだ。満を持しての昇進という訳だ。だから昇進してからの祐輔は人気が爆発して、何処の寄席でもトリを取らせていたし、大きな落語会でも引っ張りだこだった。今の芝居(興行)もアイツがトリなのだ。

 高座では色物の太神楽が終わりを迎えようとしていた。色物とは寄席では落語以外の芸を朱色の字で書くのでこう呼ばれている。つまり漫才も紙切りも慢談も色物なのだ。
 太神楽の二人の師匠が高座を降りて来ると一斉に「お疲れ様でした」と声がかかる。それと入れ替えに先ほどの兄さんが高座に出て行く。前座に見送られながら兄さんは高座に出て行った。この後は「仲入り」と言って休憩時間となる。その直前に出る噺家はトリと呼ばれるその日の最後の噺家の次に大事なポジションだ。実力がなければ勤まらない。俺などとは違う……。
 まして、仲入り後に出るなら兎も角、その前に出る俺のようなのは単なる数合わせに過ぎないことを俺は感じていた。
 寄席では初日、中日、千秋楽と終わると打ち上げがある。ようするに呑み会だ。トリの真打が費用を持ち、皆を誘って芸の話をしながら呑むのだ。それは建て前で、芸の話なぞはしない。皆自分の芸の不味い所は知っているからだ。
 それに真打昇進以来、あちこちでトリを取ってる祐輔とトリどころか、たまにしか寄席に出して貰えない俺とでは既に差が開きつつあった。
「十年に一人」とか「久しぶりの本格派」などと呼ばれて若手真打としてその地位を固めつつある祐輔の酒は気持ち的に呑む気になれなかった。
 先ほどの兄さんから
「打ち上げ行かないのかい?」
 と言われたが
「今日はこの後もありますんで」
 そんな見栄を張って楽屋口を後にした
 外に出るとやっと陽が暮れようとしていた。今日はこの後は仕事も用事もない。家に帰るしかなかったが、素直に帰る気にはならなかった。少し呑んでから帰ろうかと考えが浮かぶ。
 ぶらぶらと当てもなく歩いて良さ気な店を物色していると、不意に後ろから声をかけられた。振り返るとネクタイこそ締めていないがグレーのスーツ姿の男が立っていた。年は俺よりも幾つか歳上だと感じた。
「師匠、お帰りですか?」
 どこか陽気な声で思わず返事をしてしまった。普段ならこんな態度は取らないのだが……。
「ええ、まあ出番は終わりましたからね」
 そう返事をすると男は口角を上げて
「今日の『野ざらし』良かったですよ。久々にあの噺で笑いましたよ」
 俺も一七年噺家をやっていると、寄席にどんな客が来ていたかは高座に出れば判る。今日はこの男の姿は覚えが無かった。
「客席にいらしたのですか? 気が付きませんでしたよ」
 覚えがなくとも今日俺がやったのは確かに「野ざらし」だった。初日から今日まででこの噺を俺がやったのは今日が初めてだ。それから言うとこの男は確かに今日、寄席の何処かに居たのだろう。それだけは間違いがなさそうだった。
「あの噺で笑ったのは久々でした。最近あの噺をやる人は、八五郎がどこか白けていましてね、面白くないんです。噺家自身が自分の心の中で『こんな奴はいない』と思いながら演じてるんでしょうねえ。だからそれがこちらにも伝わって面白く無いのです」
 そんなことを言ったので素人とは思えなかった。
「随分お詳しいのですね」
「いや、これしか趣味がありませんでしてね。ところで、もしお暇ならお連れしたい場所があるのですがね」
 正直、初対面の男と一緒に何処かに行きたくはなかった。出来れば避けたかった。遠回しに断ろうとした時だった。
「師匠、私は決して怪しい者ではありません。それに、お酒とかの誘いでもありません。お見せしたいものがあるんです。決して後悔はさせません」
 見せたいもの? オレには想像がつかなかった。それに怪しい奴が自分から怪しいとは言わないだろうと考えた。ならば着いて行ってもそう悪いことにはならないだろうと考えた。
「何を見せてくれるのですか?」
「それは見てのお楽しみです」
 その時不思議にも、俺は俺は男に着いて行く覚悟をした。
「ではこちらです」
 男が歩き出した道は不思議なことに今まで俺が知らない道だった。この辺りなら寄席に来る度に幾度も歩いた道だが、こんな道は今まで気が付かなかった。振り返るとその光景も見知った街のものではなかった。それにいつの間にか陽が暮れていて商店街の街灯に明かりが灯っていた。
「何処に連れて行くのですか?」
 あまりの不安な気持ちに男に問うと
「大丈夫ですよ。私の後に着いてくれば何の心配もありません」
作品名:笑いの神 作家名:まんぼう