深夜のチョコレート
駅に着いた私は電光掲示板を見上げた。最終電車まであと十分以上ある。暖房のついた休憩室に入って腰を下ろす。
ふとトートバックに入った小箱が目に入った。先輩に渡すはずだった例のチョコレートだ。地味なその小箱を見ているうちに、腹の虫がなった。無性に甘いものを口にしたくなってリボンを解く。
中には小さな銀紙におさまったチョコレートが四個入っている。本命の彼の箱には十個入っている。そのことを知っているのは私だけだ。つまらない意地だが、渡せただけで十分だ。これは自分への褒美として食べてしまおうと思った。
銀紙を外して不細工なチョコレートを口に放りこむ。溶かして固めただけなのだ、味の保証はある。なのに――
ひとつ食べても、ふたつ食べても、チョコレートは涙の味しかしなかった。
高校三年生の冬、友人が彼に渡すはずだった手作りチョコと同じ、わずかな塩味――
鼻の奥から逆流してくる涙をこらえながら、どうしてダミーなんか用意したのだろうと思った。素直に本命チョコだけ作って、ちゃんと告白すれば彼はどんな反応をしてくれただろう。
想像することさえ怖い――中学の時から変わらない、情けない自分がいる。
待合室には他に人がいるというのに、涙がこぼれ落ちてしまった。恋に真剣だった友人が渡せなくて、ごまかした私が渡せてしまったチョコレート。あれだけモテる彼なのだから、もっと立派で素敵な本命チョコをもらっているに決まってる――
私はアレルギーで目がかゆいんですと言わんばかりに目じりをこする。
またひとつチョコを口に入れる。深夜のチョコレートは口腔にしみわたって、胸の痛みを呼び覚ます――
するとその時、ポケットの中で携帯電話が振動した。涙でみじめに濡れてしまった指をぬぐって画面を見る。
着信:大谷――
やっぱりあんなもの受け取れないんだろう、と思いながら震える指で画面を押す。
「……もしもし」
「溝上、今どこ?」
「どこって……終電待ってるんだけど」
「今からそっち行っていい?」
彼の言っていることが理解できず、私は「はあ?」と声を上げる。
「大谷君を待ってたら、終電逃すんだけど」
「そうなったら朝まで付き合ってやるからさー」
「何言ってんのよ!」
思わず声を荒げてしまい、冷たい視線を投げかけられる。私は膝の上に乗せていた小箱をトートバックに放りこみ、あわてて待合室の外に出る。
「あ、おまえ今やらしいこと考えてたな。駅前のファミレスに決まってるだろ」
「どっちだって同じことでしょ! どうして待たないといけないのよ」
駅のホームではもうすぐ最終電車が着くというアナウンスが鳴っている。もしかするともう近くまで来ているのかもと、携帯電話を耳に当てたままあたりを見回す。
「電話でもいいかなって思ったんだけど、やっぱり顔見て言いたいからさ」
「……何を?」
膨張した心臓が全身を支配するように鳴り始める。ホームに駆け込んでくる人の波を見つめながら、耳に神経を集中させる。
「おまえにチョコもらったの、嬉しかったから」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓はぎゅっと縮んだ。彼の言葉をどう受け止めればいいのかわからなかった。ただ「……うん」とうなずいて、携帯電話のスピーカーから聞こえる街の音に耳を澄ませる。
「すぐ行くから、待ってて」
私が返事をするのも待たず、通話は切れた。熱を帯びた携帯電話を握りしめたまま、私は立ちつくす。
最終電車に乗る人の群れが背中を押し始める。私はあわてて列の外に飛び出す。ホームにいた人たちがみな電車の中に吸い込まれる。笛をくわえた車掌が訝し気な目で私を見つめてくる。
私は首を横に振った。車掌が笛を吹いて、電車は静かに発車する。
人生で初めて最終電車を逃してしまった――白い息を吐きながら、去っていく電車のライトを見つめる。左手の中には最後のチョコレートが残っている。
深夜のチョコレートをかみ砕く。やっぱりそれは涙の味しかしなくて、古傷にピリピリと染みこんでくる。
黒いダウンジャケットが見える。えくぼを浮かべた彼が手を上げる。
立待月の下、私は涙をぬぐって大きく手をふった。
(完)