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circulation【4話】緑の丘

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7.浮かぶ海



「おーい」

 微かに聞こえた、馴染みのある声。

 丘の後ろを見下ろすと、急な坂を元気に駆け上ってくる黒いクジラのバンダナと、その後ろからフローラさんと一緒に登ってくる真っ白な白衣が目に入った。
「スカイとデュナだ!」
 私の隣でフォルテが声を上げる。
 小さな手の平をぶんぶん振り回して、フォルテがスカイ達へ手を振ると、スカイも、フォルテの倍はありそうな手を振って人懐っこい笑顔を見せる。
 その向こうでは、挨拶代わりかデュナがキラリと眼鏡を光らせていた。
「おかえりなさい!!」
 やっと頂上に着いたスカイに、フォルテがぴょこんと飛びつく。
「ただいま。フォルテ、元気になったんだな」
 スカイが、嬉しそうに目を細めてフォルテの頭をポンポンと撫でる。
「うんっ。えっと、心配かけてごめんなさい」
「おう、気にすんな」
 まるで子供同士のように、無邪気な笑顔でニコニコと向かい合う二人。
 その間を割ってデュナが登頂した。
「ああもう、この坂無駄に急なのよ……」
 この村に戻ってくるまでも相当歩き通しだっただろうに、その上戻って早々山登りでは、デュナでなくとも文句を言いたくなるだろう。

 何しろ、その靴だ。

 相変わらず、デュナの靴はハイヒールな黒のエナメル靴だった。
「二人とも、おかえり」

 私の声に、青い髪をした姉弟はふんわり微笑むと「ただいま」と声をハモらせた。

「今日はここでお昼なんですって?」
 デュナがシートの中央に陣取って、足を伸ばしながら問う。
「うん、五人分のサンドイッチ作ってきたよ」
 横からフォルテも「私もいっぱいお手伝いしたー」と働きぶりをアピールしている。
 確かに、今日のフォルテの活躍なくしては、今、五人分のサンドイッチは用意できなかっただろう。
「俺達の分もあるのか、準備いいな」
 スカイが私の開いて見せたバスケットを覗き込んで言う。
「フローラさんが、二人なら絶対今日帰って来るって……」
 苦笑しながら話すと、フローラさんが
「言ったとおりだったでしょう?」
 と勝ち誇ったように胸を張った。

 ひとしきり雑談が終わった頃には、太陽は真上まで昇っていた。
「じゃあそろそろお昼にしようか」
 と、バスケットに手を伸ばしかけたとき、スカイがポツリと呟いた。
「今日は、ホント雲ひとつない空だな……」
 抜けるように青い空には、見渡せる視界の隅から隅まで淀みない青だった。
「うーん……本当は、フォルテに浮海を見せたかったんだけどね」
 口にしてしまうと、途端に残念な気持ちで胸がいっぱいになる。
 ああ、そうだ、皆に海水浴の提案をしようと思ってたんだっけ。
 遥か遠くに見える海は、真上から照りつける日を浴びて一層キラキラと光を放っていた。
「……見えるかもしれないぞ、浮海」
 スカイが、海の方向をじっと見つめながら言う。
「え?」
「えっと、浮海ってなぁに?」
 きょろきょろと皆の顔を覗き込むフォルテの疑問に、デュナが「浮海って言うのはね……」と説明を始める。
 原理のよく分かっていない私と、同じく分かっていなかったらしいフローラさんも説明を聞きに集まる。

 それでは、と皆を見回して口を開いたデュナの言葉を遮って、スカイが声を上げた。
「始まるぞ!」
「まあ、実際見る方が早いわね。あっという間だから、目を離さないようにね」

 デュナの指す方向は、海のある方角だった。
 太陽の光をいっぱい集めた水面は、遠目からでも眩しいほどに輝いている。
 今にも溢れそうなほどに海を埋め尽くしている光の奔流は、なんだか少し異様にも思えた。
 その光の雫が、ぽつり、ぽつりと海面を離れて空へと吸い寄せられるように浮かび上がる。
「わぁ……」
 幻想的な光景にフォルテが声を漏らした途端、海面の光が一斉に波打ちながら空へと噴き上がる。
 遠いこの場所へも、その波音が聞こえそうなほどの勢いで、見える範囲全ての海面から、光の波が大きくうねりながら空へと渦を巻く。

 ほんの、一瞬の事だった。

 確かに、瞬きでもしていたら見逃してしまったかもしれない。
「あら? まあまあ。浮海が出来てるわ~」
「……母さん、ちゃんと見てた……?」
「え、ええ、まあ、ちょっと……その目が痒くて……」
 こすっていたら見逃してしまった。というところか。
 空に広がった大波の余波か、ふんわりと、風に乗って潮の香りが微かに届いた気がした。

 光の渦は、まだゆっくりと空中で渦を巻きながら、それでも徐々に落ち着いた波に変わろうとしている。
 白とも黄色ともつかなかった光が、少しずつ空の青色に溶けてゆく。
 一方の海面も、射し込む日差しを受けて、またキラキラとした輝きを取り戻しつつあった。
「すごーい……」
 小さな呟きに視線を下ろすと、フォルテのまあるく見開かれた目が、海よりもなお輝いていた。
「ホントあっという間なんだな。俺も初めて見たけどさ」
「私も、実際見るのは初めてだわ」
 スカイに続いて、デュナも頷く。

 そっか。私だけじゃなくて、ここにいる皆が初めて見る光景だったんだ。
 今日、この丘の上で、皆揃って同じ景色を見られた事が、何だか無性に嬉しかった。
「それじゃあ、浮海について説明するわね」
 空に浮かんだ海を横目に、デュナが講義を再開しようとする。
 それを、またもスカイが遮った。
 今度はお腹の音で。
「……」
 皆の視線を受けて、スカイの額にうっすらと汗が浮かぶ。
「えーと……、そ、その前に、お昼にしないか?」
「はぁ……しょうがないわね」
 スカイの引きつった笑顔にデュナがわざとらしくため息をついて、苦笑いを返す。
 それを合図に私は手元に引き寄せたバスケットを開く。

 と、いつもならここでフォルテが両手を差し出して、それに私がお皿を乗せて、皆に配ってねと頼むところなのだが……。
 さっきまで夢中で空を見上げていたはずのフォルテを振り返ると、
 その背中は、まだ先ほどと変わらずそこにあった。
 フォルテは何かに夢中になると、全然周りの声が聞こえなくなっちゃう子だからなぁ……。
 自分の事は棚上げしつつ声を掛ける。
「フォルテ、ご飯食べるよー」
 私の声に、一瞬ビクッと小さな肩を震わせてから、慌ててこちらへ方向転換をするフォルテ。
「あっ」
 その途中で小さな悲鳴をあげて、こちらへ近付きつつあったフォルテが途端に遠ざかる。
「フォルテ!!」
 よく見れば、遠ざかりつつあるのは頭で、足元はこちらに残ったままだ。
 つまり、フォルテは丘の向こう斜面へ背中から倒れようとしていた。

 助けを求めるように、宙へ伸ばされた小さな手。
 それを目掛けて思い切り地を蹴る。
 後ろのバスケットがどうなったかを確かめる余裕は無い。
 夢中でフォルテの手を掴んで、一気に自分の胸へと引き寄せる。
 ふわふわのプラチナブロンドをがっちり抱き寄せて、やっと視線をその奥へ投げると
 まばらに針葉樹を散らした急な斜面が、その終わりまではっきり見えていた。

 姿勢は既に水平に近かったが、
 私達の頭は、足の位置よりもさらに下へと重力に引かれて落下してゆく。
「ラズっ!!」
 背後から聞こえたスカイの叫び声。
「ぐぇっ」