TOWA
僕は学校帰り、そのアーケード通りを歩きながら、早くそこへ行きたくて自然と早足になっていた。季節は秋を迎えてどこか肌寒かったが、体はぽかぽかと暖かかった。それは、どこか興奮した気持ちから来ているのかもしれなかった。
叔父さんの店、どんなところなんだろう。たぶん、かなり洒落たところだろうな。あの性格だし、いつまでも気分は若者だから、インテリアとか凝ってそうだし。
そんなことを思いながら、僕は自然とにっこりと微笑み、その路地裏に入った。手に持っていた地図を確認しながら、注意深く入り組んだ道を進んでいく。そうしてようやくその看板が見つかった。
――喫茶店『永遠 TOWA』
僕はそのドアの上に取り付けられた小さな看板を見て、思わず噴き出してしまった。叔父さんらしいネーミングだな、これは。
ドアの取っ手を握って、おそるおそる開いた。するとその瞬間、ふわりと暖かな風が僕の前髪を浮き上がらせた。その心地よいコーヒーの香りに、僕は思わず立ち尽くしてしまう。
店内はなかなか広く、入り口から向かって右にカウンター席があり、そして反対側にたくさんのテーブル席が設けられていた。
そこで老若男女、実に様々な年齢の人々が談笑しており、店内にはどこか活気があった。一つ一つのテーブル席にも、広いスペースが確保されていて、寛ぎ易い空間が出来上がっていた。
インテリアも、どこか淡いオレンジ色のランタンが薄暗い店内を照らし出し、壁にはあちこちに額縁に入った絵が飾られていた。
店内にはクラシックが流れていた。子供達や動物が音楽に合わせて踊る光景が浮かんでくるような、体中の緊張を解く軽やかな旋律だった。なだらかな丘を描くように上下するメロディ、時に跳ねるように途切れるその音色。
たぶん、その曲はペールギュントの『朝』なんじゃないかと思う。僕もグリーグのコレクションを持っていて、それで聴いたことがあったのだ。
なかなかいい店じゃないか。僕は思わず心がうきうきと浮き立つのを感じながら、そっと店内に足を踏み入れた。すると、そこで「いらっしゃいませ!」と威勢の良い声が聞こえて、そしてカウンターの奥から一人の背の高い男性が現れた。
その人はワイシャツの上からでも、盛り上がるようについた筋肉に覆われており、肌がこんがりと焼けていた。そして、その顔はとても精悍で、鼻の下に髭をたくわえていた。
その瞳は活き活きとしていて、見ているこっちが笑ってしまえるような、明るい笑顔を浮かべていた。彼が僕の叔父さんだった。
「叔父さん。来たよ」
僕がそう言ってうなずいてみせると、叔父さんが歯を見せて笑い、そしてカウンターを回って近づいてきた。そうして思い切り背中を叩いてきた。
「よく来たな、達也! どうだ、俺の店は?」
叔父さんはそう言って僕の肩に手を置き、子供のようにきらきらした瞳で見下ろしてくる。僕はにっこりと微笑み、親指を立ててみせた。
「最高だよ。かなり感じのいい店じゃないか。さすが、叔父さんだ」
「はっはっは! いつかお前に見せることを考えて、恥ずかしくないような店に仕上げたんだよ。さ、座れ。カウンター席でいいな?」
僕は叔父さんに促され、その座高のある椅子に腰を下ろした。カウンターテーブルはぴかぴかと光り輝いていて、その向こうには、叔父さんが厨房で作業しているのが見えた。
ここからだと、コーヒーの香りを遠くからでも味わうことができた。これは、かなりすごいかもしれない。叔父さんは想像以上に、すごい人だったんだと思い知らされる。
そうして叔父さんが目を細めながら、「飲んでみろ」とブレンドコーヒーを差し出してきた。
僕はうなずき、そっとカップをつかんで口に近づけた。
そして口に含んだ瞬間、ぱっと何か背筋を大きな電流が走ったのがわかった。僕は思わずカップの中を覗いて口を押さえた。
「すごくまろやかじゃないか。程よい苦味で、酸味が少ないし、ケーキとかに合いそう。なかなかいい味出してるね」
「さすが達也だな。コーヒーの味がよくわかってる」
僕は無言で少しずつコーヒーを飲み、そっとソーサの上に置いた。うなずき、僕は叔父さんをじっと見つめて言った。
「叔父さんも夢を追って、ここまで来たんだね。一人でこの店を切り盛りして、成し遂げたことは本当にすごいことだと思うよ。尊敬する」
すると、叔父さんは鼻の下に指を乗せて、へっと恥ずかしそうに視線を逸らせた。そして、本当に嬉しそうな顔をして、その余韻に浸っているようだった。
僕はそんな叔父さんを見て、もう一度、自分の想いを確かめた。僕も、叔父さんみたいに夢を叶えるんだ。どんなに駄目でも惨めでも、きっと追い続ければ、その糸口は見つかるはずだから。
そうして叔父さんはゆっくりしていけよ、と僕の肩を叩いて、そして仕事に戻っていった。僕はそんな叔父さんの背中を見つめながら、思わず口元を緩めてしまう。
やっぱりここに来て良かったな。今日は塾の予定を入れておかなくて正解だった。
そしてそっと小さなメモ帳とシャーペンを取り出して、僕は今浮かんできたそのイメージを言葉に乗せて記していった。今なら、どこかいい作品が書けそうな気がした。
一度、僕のこの喫茶店に対する感慨はそこで途切れ、小説の執筆へとスイッチは切り替わる。だが、彼女がそんな僕のぼんやりした意識に、突然矛を投げ入れたのだ。
誰がそんなものを投げ入れたのかと、最初僕は呆然としたのだ。彼女はドアベルを大きく鳴らせて喫茶店に入ってくると、店内を軽く見渡した。
僕は何気なく執筆を中断して、その一人の来訪者を見守っていたが、そこで彼女がこちらへと振り向いた。
一瞬目が合って、そして僕は何か尖ったものを心に投げ入れられたのかと思うくらい、不思議な感覚を抱いた。彼女の瞳の中に、どこか強い決意のようなものが漲っていたからだ。
彼女は僕へと視線を逸らせずじっと見つめてきて、そしてどういう訳かこちらへとまっすぐ歩み寄ってきた。僕はどうしたらいいのかわからず、じっと彼女の視線を受け止めていた。
なんなんだろう。突然平手打ちでもされるんじゃないだろうか。
そんなことを思っていると、本当に彼女は僕の目の前まで近づいてきて、そしてじっと僕の表情を窺うように見つめてきた。そうしてぽつりと言った。
「隣の席、座ってもいい?」
僕は首を傾げてしまった。何の用? ひょっとして、彼女は僕の知り合いで、こちらが忘れているだけなんだろうか。
彼女は僕の返答を待たずに僕の隣に腰を下ろし、そこで初めて笑顔を見せた。彼女はテーブルに両腕をつき、こちらへと身を乗り出してきて言った。
「突然ごめんね。この店に高校生が来ることなんて少ないから興味があって。君、どこの高校?」
彼女のそのお月様のようにまんまるの瞳を見返して、僕はおずおずと「野阪度高校だよ」とつぶやいた。彼女は自分の頬に人差し指を突き、「野阪度高校?」と首を傾げた。
「結構ここから遠くにある高校なんだけど。君、この喫茶店の常連なの?」
僕がそう言って彼女の薄く化粧が施された綺麗な細面の顔を見つめると、彼女はそこで顔中を赤くしてそっぽを向いた。
あれ? 何か僕、変なこと言ったかな?
叔父さんの店、どんなところなんだろう。たぶん、かなり洒落たところだろうな。あの性格だし、いつまでも気分は若者だから、インテリアとか凝ってそうだし。
そんなことを思いながら、僕は自然とにっこりと微笑み、その路地裏に入った。手に持っていた地図を確認しながら、注意深く入り組んだ道を進んでいく。そうしてようやくその看板が見つかった。
――喫茶店『永遠 TOWA』
僕はそのドアの上に取り付けられた小さな看板を見て、思わず噴き出してしまった。叔父さんらしいネーミングだな、これは。
ドアの取っ手を握って、おそるおそる開いた。するとその瞬間、ふわりと暖かな風が僕の前髪を浮き上がらせた。その心地よいコーヒーの香りに、僕は思わず立ち尽くしてしまう。
店内はなかなか広く、入り口から向かって右にカウンター席があり、そして反対側にたくさんのテーブル席が設けられていた。
そこで老若男女、実に様々な年齢の人々が談笑しており、店内にはどこか活気があった。一つ一つのテーブル席にも、広いスペースが確保されていて、寛ぎ易い空間が出来上がっていた。
インテリアも、どこか淡いオレンジ色のランタンが薄暗い店内を照らし出し、壁にはあちこちに額縁に入った絵が飾られていた。
店内にはクラシックが流れていた。子供達や動物が音楽に合わせて踊る光景が浮かんでくるような、体中の緊張を解く軽やかな旋律だった。なだらかな丘を描くように上下するメロディ、時に跳ねるように途切れるその音色。
たぶん、その曲はペールギュントの『朝』なんじゃないかと思う。僕もグリーグのコレクションを持っていて、それで聴いたことがあったのだ。
なかなかいい店じゃないか。僕は思わず心がうきうきと浮き立つのを感じながら、そっと店内に足を踏み入れた。すると、そこで「いらっしゃいませ!」と威勢の良い声が聞こえて、そしてカウンターの奥から一人の背の高い男性が現れた。
その人はワイシャツの上からでも、盛り上がるようについた筋肉に覆われており、肌がこんがりと焼けていた。そして、その顔はとても精悍で、鼻の下に髭をたくわえていた。
その瞳は活き活きとしていて、見ているこっちが笑ってしまえるような、明るい笑顔を浮かべていた。彼が僕の叔父さんだった。
「叔父さん。来たよ」
僕がそう言ってうなずいてみせると、叔父さんが歯を見せて笑い、そしてカウンターを回って近づいてきた。そうして思い切り背中を叩いてきた。
「よく来たな、達也! どうだ、俺の店は?」
叔父さんはそう言って僕の肩に手を置き、子供のようにきらきらした瞳で見下ろしてくる。僕はにっこりと微笑み、親指を立ててみせた。
「最高だよ。かなり感じのいい店じゃないか。さすが、叔父さんだ」
「はっはっは! いつかお前に見せることを考えて、恥ずかしくないような店に仕上げたんだよ。さ、座れ。カウンター席でいいな?」
僕は叔父さんに促され、その座高のある椅子に腰を下ろした。カウンターテーブルはぴかぴかと光り輝いていて、その向こうには、叔父さんが厨房で作業しているのが見えた。
ここからだと、コーヒーの香りを遠くからでも味わうことができた。これは、かなりすごいかもしれない。叔父さんは想像以上に、すごい人だったんだと思い知らされる。
そうして叔父さんが目を細めながら、「飲んでみろ」とブレンドコーヒーを差し出してきた。
僕はうなずき、そっとカップをつかんで口に近づけた。
そして口に含んだ瞬間、ぱっと何か背筋を大きな電流が走ったのがわかった。僕は思わずカップの中を覗いて口を押さえた。
「すごくまろやかじゃないか。程よい苦味で、酸味が少ないし、ケーキとかに合いそう。なかなかいい味出してるね」
「さすが達也だな。コーヒーの味がよくわかってる」
僕は無言で少しずつコーヒーを飲み、そっとソーサの上に置いた。うなずき、僕は叔父さんをじっと見つめて言った。
「叔父さんも夢を追って、ここまで来たんだね。一人でこの店を切り盛りして、成し遂げたことは本当にすごいことだと思うよ。尊敬する」
すると、叔父さんは鼻の下に指を乗せて、へっと恥ずかしそうに視線を逸らせた。そして、本当に嬉しそうな顔をして、その余韻に浸っているようだった。
僕はそんな叔父さんを見て、もう一度、自分の想いを確かめた。僕も、叔父さんみたいに夢を叶えるんだ。どんなに駄目でも惨めでも、きっと追い続ければ、その糸口は見つかるはずだから。
そうして叔父さんはゆっくりしていけよ、と僕の肩を叩いて、そして仕事に戻っていった。僕はそんな叔父さんの背中を見つめながら、思わず口元を緩めてしまう。
やっぱりここに来て良かったな。今日は塾の予定を入れておかなくて正解だった。
そしてそっと小さなメモ帳とシャーペンを取り出して、僕は今浮かんできたそのイメージを言葉に乗せて記していった。今なら、どこかいい作品が書けそうな気がした。
一度、僕のこの喫茶店に対する感慨はそこで途切れ、小説の執筆へとスイッチは切り替わる。だが、彼女がそんな僕のぼんやりした意識に、突然矛を投げ入れたのだ。
誰がそんなものを投げ入れたのかと、最初僕は呆然としたのだ。彼女はドアベルを大きく鳴らせて喫茶店に入ってくると、店内を軽く見渡した。
僕は何気なく執筆を中断して、その一人の来訪者を見守っていたが、そこで彼女がこちらへと振り向いた。
一瞬目が合って、そして僕は何か尖ったものを心に投げ入れられたのかと思うくらい、不思議な感覚を抱いた。彼女の瞳の中に、どこか強い決意のようなものが漲っていたからだ。
彼女は僕へと視線を逸らせずじっと見つめてきて、そしてどういう訳かこちらへとまっすぐ歩み寄ってきた。僕はどうしたらいいのかわからず、じっと彼女の視線を受け止めていた。
なんなんだろう。突然平手打ちでもされるんじゃないだろうか。
そんなことを思っていると、本当に彼女は僕の目の前まで近づいてきて、そしてじっと僕の表情を窺うように見つめてきた。そうしてぽつりと言った。
「隣の席、座ってもいい?」
僕は首を傾げてしまった。何の用? ひょっとして、彼女は僕の知り合いで、こちらが忘れているだけなんだろうか。
彼女は僕の返答を待たずに僕の隣に腰を下ろし、そこで初めて笑顔を見せた。彼女はテーブルに両腕をつき、こちらへと身を乗り出してきて言った。
「突然ごめんね。この店に高校生が来ることなんて少ないから興味があって。君、どこの高校?」
彼女のそのお月様のようにまんまるの瞳を見返して、僕はおずおずと「野阪度高校だよ」とつぶやいた。彼女は自分の頬に人差し指を突き、「野阪度高校?」と首を傾げた。
「結構ここから遠くにある高校なんだけど。君、この喫茶店の常連なの?」
僕がそう言って彼女の薄く化粧が施された綺麗な細面の顔を見つめると、彼女はそこで顔中を赤くしてそっぽを向いた。
あれ? 何か僕、変なこと言ったかな?