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ニコチン中毒患者の悲哀

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煙草が吸いたい……。
 
 もう二時間近く電車に揺られている。
 二度乗換えがあったのだが、最近の駅には喫煙所というものがない。
『どこでも構わず吸わせろ』などと言うつもりはない、受動煙を強要するつもりはないし、世の中には煙草の臭いが嫌いな人も多いことだって承知している、だから小さく固まってコソコソっと吸わせてくれれば良いのだ、とにかくニコチンが必要なのだ、ニコチンを摂取させてくれ……。

 少し前まではホームのどちらかの端っこには灰皿が設置されて、床に『ここから外はダメよ』とばかりに四角く線が引かれていた。
 ガラス張りの小さなスペースを仕切られてる場合もあった、灰皿の中の水に溶けた煙草の臭いは愛煙家にとってさえもツンと鼻につく、しかし、それも仕方がない。
 『迫害だ、差別だ』などというつもりはない、煙草を吸わない人には迷惑なシロモノであることは認識している、『吸えるスペースを作ってくれてありがとう』そんな謙虚な心境で吸わせて頂いていたのだ。
 だが、それも認めてもらえなくなった……。
 体に良くないのは知っているが、ニコチンには依存性があるのだ。
 潔く認めよう、俺はニコチン依存症だ、ニコチン中毒患者だ。
 だけど、駅の売店でもおおっぴらに売っていて、その価格の六割は税金だ。
 高率の税金を取り立てておいて、『買うのは歓迎、でも吸うな』はないだろう?
 
 夏の夕暮れ時だ。
 十分ほど前から空はにわかに掻き曇り、どんよりと暗くなって来た。
 遠く雷鳴も聞こえて来る。
 まるで今の俺のようだ。
 低く垂れ込めた夏の雲はどっと雨を降らせ、何事もなかったかのように晴れ上がる。
 それと同じように、二、三本立て続けに火をつけて肺を煙で満たし、ニコチンを思う存分に摂取できたら、その後はからりと晴れた気分になるに違いない。
 
 目的の駅はもう次だ、雨雲は俺より一足早くスッキリすることを選択したようだ、大粒の雨が落ち始める……ああ、俺も早く……。
 
 ようやく目的の駅に着いた。
 ホームに降りると素早く左右を見回す。
 喫煙所などないことはわかっている、コーヒーチェーンかハンバーガーショップがないか探したのだ。
 ああ……煙草と冷たく冷えたアイスコーヒー。
 ニコチンとカフェイン。
 今の俺に最も必要なもの、必要欠くべからざるものと言っても良い。
 ぼんやりした頭の芯をスッキリと晴らしたい、体のムズムズ感を消し去りたい。
 
 あった!
 ホームの向かい側にハンバーガーとホットドックの看板、チェーン店でないのが一寸不安だが、とにかくあそこへ。
 
 階段を二段飛ばしで駆け上がり、跨線橋を早足で抜け、手すりに掴まる掌が熱を持つほどの速度で階段を下り、目的の看板の前へ……。

(くそっ……マジかよ)
 自動ドアに貼紙がしてあった。

【七月一日より当店は全面禁煙とさせていただきます、ご協力をお願いいたします】

 お願いじゃねーんだよ、お願いしたいのはこっちなんだよ……。

 気を取り直して改札に向かう。
 駅前には喫煙スペースがあるかもしれない、喫茶店もあるかもしれない、コーヒーチェーン店やハンバーガーショップもあるかもしれない。
 そのどれかひとつぐらいは何とか……。

(助かった!)
 改札を出ると【←喫煙所】の表示、文字がずいぶんと薄れているが、『煙』の一文字は見逃さない、しかも左ってことは屋根があるスペースかも知れない、端っこではあるだろうが、雨足は今や最高潮に達して土砂降り、吹き込もうがなんだろうが屋根がないよりマシというものだ。
(あったぞ! しかも屋根がある……ん?……おかしいぞ……)
 四角く白線で区別されているスペースはある、だが、肝心の灰皿が見当たらないのだ……もっとも、今の喫煙者は携帯灰皿を持ち歩くのが常識、そういうことなのかも……。
 疑心暗鬼ながらも喫煙スペースらしきところに近づくと、期待は半分裏切られた。

【喫煙所は北口に移動しました】

『ここはダメ、でも別なところに用意はしてあるよ』と言うことだ。
 つまり、さっきの表示板がやけに薄かったのは一応消したつもりだったたらしい……だがな!こっちは藁にもすがりたい心持なんだ、その気持ちをあざ笑うかのように非道な真似を……。
 奥歯がギリリと鳴るが、俺も常識ある大人、分別ある喫煙者だ、『吸うな』と書かれているわけじゃない、『あっちでどうぞ』だ、甘んじて受け入れねば……。
(北口にはどう行けば?)
 三十メートルほど先には踏み切りが……しかしこの雨だ、用心のために持って来た折り畳み傘では心許ない。
 北口と言うからには駅の構内を通って行けるのだろう、背に腹は代えられない、入場券を買おうじゃないか……。

 最近はpasmoやsuikaが当たり前になっているから、券売機の数は少ない、この駅では二台、しかも一台は故障中の貼紙がしてある。
 だが、一台あれば充分……ではなかった。
 一人のおばあさんが券売機の前に立っている。
(まずいぞ……)
 悪い予感は得てして当たるものだ。
 おばあさんは手提げ袋からまず巾着を取り出す、そしてその中からがま口を取り出して中を覗き込む……どうもよく見えないらしい、再び手提げ袋に手を突っ込んでなにやら探し始める……どうやら老眼鏡のケース……その中からしっかりハンカチに包み込まれた老眼鏡が出てきた。
 おばあさんはそれをかけると再びがま口の中を……どうやら10円玉がたくさんあるらしい、それを一枚一枚投入口に入れ始める……十三枚入ったところでおばあさんの手が止まる、後一枚がないらしい……もう、十円くらい俺が……そう思って財布に手を伸ばすと、おばあさんのがま口から百円玉、それを入れてボタンを押すと10円玉がジャラジャラと……。

 おばあさんが戻った十円玉を一枚一枚がま口に戻し、がま口を巾着袋に入れ、老眼鏡をきっちり包んでケースにしまって手提げに入れる……。
 
 きっとしっかりしたおばあさんなのだ。
 自分の身の回りのことはきちんと自分でやり、ゴミ出しのルールも几帳面に守って、ゴミ置き場が散らばっていれば掃除くらいしちゃうのかもしれない。
 だけど……だけど……この場でそこまで几帳面にやらなくても……。

 ようやくおばあさんがどいてくれると、俺はpasmoを券売機に入れ、素早く入場券のボタンを押す。
 再び跨線橋を駆け上り、駆け下り、北口と表示された改札を出る。
 
 あった!

 駅前ロータリーの真ん中の植え込み、その中に円形にベンチがしつらえられているポケットパークがあり、真ん中に灰皿が……土砂降りの雨に打たれて煙っている……。
 今度は屋根無しか……しかし、もうそんな贅沢は言わない。
 俺は折りたたみ傘を開くのももどかしく、喫煙所に走る。

 傘を肩と首の間に挟んでワイシャツの胸ポケットから煙草を取り出して蓋を開ける。

 ……ない……。
 
 いや、煙草はまだたっぷりとある、ライターがないのだ。

 俺は基本的にZippoの愛好家だ。
 カチャっとふたを開け、シュッと火花を飛ばし、ジジっという音と共に立ち上る赤い炎とオイルが燃える臭い、あれが好きなのだ。
作品名:ニコチン中毒患者の悲哀 作家名:ST