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銀の錬時術師と黒い狼_魔の島

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第十六話 魔の島


 水平線の手前に灰色の巨大な壁が浮かんでいた。
 あれが〈嵐の島〉──魔の島だ、とダガス船長が曖昧(あいまい)に手を振って示す。そちらを見ようともしない。
 元来、船乗りは迷信深い。深海にひそむ海魔の存在を信じて疑わないし、迷いこんだら脱出が不可能な魔の海域がどこかにあると真顔で主張する。彼らにとって〈嵐の島〉は、口にするのもはばかられる最大の禁忌のひとつなのだ。

 ここまで近づくことを承諾させるのに、レギウスは恫喝(どうかつ)めいた指示をダガスに押しつけないといけなかった。
「冗談じゃない」
 ダガスは顔を青ざめさせて、
「あんなところへ行けるか! そんなに行きたいんだったら、あんたらだけで行け!」
「死にたいのか、あんた?」
 レギウスは、困り果てた顔のリンを目で示して、
「おれたちの言うとおりにしろ。さもないとリンがあんたらの血を吸って海のなかに放りこむからな」
 ダガスはおそるおそるリンをうかがう。レギウスにせかされてリンが小さな牙をひけらかすと、ダガスの顔色が死人みたいな土気色になった。
「……わ、わかった。わかったから、おれたちの血を吸わないでくれ!」
「失礼ですね。誰があなたたちの血を……」
「わかればいいんだ、わかれば!」
 レギウスはダガスの背中をどやしつける。小柄な船長はバランスを崩してよろめいた。
「報酬分はきっちりと働いてもらうからな!」
 レギウスのその宣言で、陰気な顔の船乗りたちの去就は決まった。
 〈統合教会〉のお触れはリンとレギウスの人相のみを伝えていた。リンが吸血鬼であることは秘密になっている。無用なパニックを生むだけだと教会側は判断したのだろう。
 朝になって、月の魔力から覚めた船乗りたちがあわや反乱を起こしかけたとき、彼らを意気阻喪(いきそそう)させたのがリンの正体だった。かわいらしい銀髪の美少女が吸血鬼だと知って、ただでさえ迷信深い船乗りたちは恐慌をきたした。腑抜けになった彼らをコントロールするのは難しくなかった。リンが牙をちらつかせると、みんなが驚くほど従順になったのである。
 ダガスは不器用に五神教徒の印を切り、海の女王の加護を祈る。指を組むその肩が、プルプルと小刻みに震えていた。
 〈嵐の島〉までは一日の航程だ。遠回りしてしまったから、着くのは夕方になるだろう。
 リンとレギウスは戦いの準備を整える。
 リンはレギウスから見つめられるたび、ポッと頬を赤らめた。昨夜の出来事を思い起こすと気恥しく感じるのだろう。心なしか、レギウスと交わす言葉もいつもより控え目だ。
 レギウスがふざけ半分で「愛してるよ」と耳元でささやくと、リンは耳まで真っ赤になる。そんな彼女がとてもかわいい。調子に乗ってお尻を触ったら、すごい顔でにらまれた。
 レギウスは笑う。リンもつられて表情をなごませる。
 なにかが自分のなかで変わったのを、レギウスは自覚した。
 体調はすこぶるよかった。船酔いも治まっている。なによりもリンとの絆を皮膚感覚のように間近く感じられた。
 筋肉が新鮮な活力に満ちあふれていた。むずがゆかった左手の五芒星(ごぼうせい)の刻印も、ようやく満足することができたのか、すっかり鳴りをひそめている。
 戦える。どんな敵が来ようとも。
 レギウスは戦意をつのらせていく。
 上陸は夜になりそうだ、と予想していたのだが、思わぬハプニングが巻き起こった。
 午後になると、それまで晴れ渡っていた空がにわかにかき曇った。
 水平線にとぐろを巻く黒い雲をながめて、ダガスが「嵐になるな」とぶっきらぼうな口調で予報する。
 経験豊富な船長の予報は的中した。
 穏やかだった海面に高い波頭が立ちあがり、せめぎ合い、ぶつかって、白い飛沫(しぶき)を散らす。
 風がうなった。波の谷間に落ちこんだ船が翻弄される。黒い雲が押し寄せてくると、針のような雨が降ってきた。
 リンとレギウスは船室に退避した。
 レギウスは悪態をつく。海の女王を呪った。それを聞きとがめたかのように、ひときわ強烈な横波が船体を激しく揺さぶった。船乗りたちが奔走する。船の肋材がギシギシときしんで、小さなほこりが天井から落ちてくる。
 こうなると、もうどうにもならない。
 いっそのこと、ひと晩かけてリンとの絆を再確認しようかとも思ったが、いかんせん揺れがひどすぎた。これでは勝負にならない。
「……明日ですね」
「クソッ……なんにもできねえ」
 結局、悲鳴をあげる船の腹のなかで不貞寝(ふてね)した。
 欲求不満が重なっていたけれど、不思議と夢は見なかった。

 嵐は次の日の明け方に過ぎ去っていった。
 船乗りたちが引きちぎれた帆を修復し、甲板に散らばった残骸を片づける。
 昨夜の狂態がまるで嘘のように、海は静まり返っていた。遠くで海鳥が螺旋を描いて高く舞っている。
 あれだけ激烈な悪天候に見舞われたのにもかかわらず、〈無敵の将軍〉号はその船名のとおり、いまだ健在だった。ダガス船長がほくそ笑む。将軍は船長のことをまだ見捨てるつもりがないらしい。
 針路を北東にとる。
 リンには物足りない遅めの朝食を終えて、甲板をブラブラと散歩していたとき、マストのてっぺんで見張りにあたっていた水夫が大声で叫んだ。
 〈嵐の島〉が見えてきた、と。

「おれたちが付き合うのはここまでだ」
 赤ら顔に厳しい表情を張りつけて、ダガス船長はきっぱりと宣言する。
 充血したダガスの眼が、彼の前に居並ぶリンとレギウスの全身をなめるようにまさぐる。
 ふたりを見上げるかっこうの船長の目つきには、一抹の不安とともに嗜虐的(しぎゃくてき)な悦楽の色も混じっていた。
(……こいつ、おれたちが死ぬもんだと思いこんでやがるな)
「まだ島からずいぶん離れてるじゃないか。こんなところでおれたちを放りだすつもりか?」
 レギウスの非難をダガスはさらりと聞き流して、
「これ以上、あの島に接近するつもりはない。ボートを貸すからここから先はあんたらだけで行ってもらおう」
「けっこうです」
 リンがあっさりと応じたので、ダガスはいささか拍子抜けしたようだ。とまどうような表情を浮かべ、伸び放題の無精髭で縁取られた口をモゴモゴと動かす。
「あんたら、死ぬ気か?」
 愉快に思う気持ちよりも疑念が勝ったのだろう、その必要もないのにダガスは声をひそめて、
「あの島には化け物がいるんだぞ。いくらそこのお嬢さんが吸血……強力な錬時術師でも、あの島の化け物に勝てるわけがない。喰われちまうのがオチだぞ」
「まるであの島にどんな化け物がいるのか、知ってるような口振りだな。あんた、上陸したことはないんだろ?」
 レギウスの皮肉にダガスはムッとする。背を向け、船首のほうへ大股に歩いていきながら、吐き捨てるように言った。
「……おれは警告したからな」
 リンとレギウスは顔を見合わせ、互いに肩をすくめてみせた。

 こうなることはなかば予想していた。
 舷側から降ろされたボートに乗りこむやいなや、リンが当然のように言い放った。
「レギウスが漕いでくださいね」
「おい」
 ボートに備えつけのオールをつかもうとしていたレギウスの動きが途中で止まる。リンをにらみつけた。
「どうしておれなんだ?」