銀の錬時術師と黒い狼_魔の島
悪夢がそのまま凝固したかのような醜悪な怪物が二回、襲撃してきた。最初と二回目はレギウスが放った〈天亡(てんぼう)〉に引き裂かれ、怒りと痛みの叫び声を引きずって闇の奥へと退散していった。
三回目に出現した魔物は、一見すると人間の男の姿形をしていた。人間と違うのは、顔の造作がまったくなかったことだ。目鼻や口はなく、のっぺりとした黄ばんだ皮膚が顔面を厚く覆っている。
レギウスは〈神の骨〉をかまえて眉をひそめる。
魔物は服を着ていなかった。全裸だ。まるで手のこんだ彫刻のような、太い筋肉の束が全身に浮きだしている。顔はないくせに、男性を示す器官はしっかりと股間に付着していた。しかも、はちきれんばかりにいきり立っている。どうやらリンを見つけて興奮しているらしい。目がないくせに彼女の姿は見えるようだ。
敵は武器すらも持っていなかったが、レギウスは油断しない。先制攻撃を仕掛けてやる、と思ったその瞬間、魔物が動きだした。
リンの結界をあっさりと突破して、魔物がジグザグに疾走する。速い。目が動きに追いつかない。
「チッ!」
レギウスがとっさに繰りだした斬撃を魔物は難なく回避する。魔物はリンを狙った。
リンが身構える。急いで第二種術式文字を結ぶが、とうてい間に合わない。
魔物の腕の肘関節から先が伸縮した。リンがギョッとする。
「おまえの相手はおれだ!」
レギウスは低い位置から刀を振り切る。
〈神の骨〉のまとった風が鋭い槍の穂先となって魔物の腕を強引に弾く。
狙いのそれた魔物の指がリンの長い銀髪をつかんだ。
リンの悲鳴。髪を引っ張られてリンがたたらを踏む。
「手を放せ!」
レギウスは跳んだ。剣先を突きだし、魔物の指を切断する。
魔物が身体ごとレギウスに向きなおる。レギウスを最大の邪魔者と認識したらしい。口もないのに、獲物を横取りされた肉食獣のような怒声をあげた。
魔物の切断された指の断面から、新しい指が瞬間的に再生された。しかも、爪の先は針のようにとがっている。
レギウスは舌打ちする。リンを背後にかばって腰を落とし、敵に〈神の骨〉の切っ先を向ける。
無限の再生能力を持つ敵ほど厄介な相手はいない。神ですらも死をまぬがれない武器で斬られたのに、それでも短時間で失われた組織を再生できる、というのが尋常ではなかった。
(ここが時間のない空間だからか……)
リンは口を半開きにして、顔のない全裸の男を凝視していた。その顔に、しだいに恐怖の色が濃くなっていく。
「……まさか……死んだ神?」
「なに?」
敵から視線を外さず、レギウスはリンに問いかける。リンは息をあえがせた。
「天界の女王の、双子の弟……本来であれば冥界の王となったはずの神です。彼は創世主戦争のときに巨神たちに殺されました」
「ああ、そんぐらい、おれだって知ってるとも。彼が死んで、その後釜に座ったのがいまの冥界の王だろ。まさか、この素っ裸のヤツがその死んだ神だっていうのか?」
「彼の魂は失われましたが、肉体は滅びなかった、といわれています。その肉体はいまでも朽ち果てず、どこかの世界をさまよってると……」
レギウスは敵を子細に観察する。なるほど。同性のレギウスでも思わず見とれてしまう、均整のとれた身体つき──かつては神の宿っていた肉体、といわれれば納得もできる。
高く盛りあがった僧坊筋、鉄板のような分厚い胸筋、普通の男性の太腿ほどの太さがある上腕二頭筋、くっきりと割れた腹筋──それは極限まで鍛え抜かれた戦士だけが手に入れることのできる、筋肉の鎧をまとった重武装の肉体だった。
「どうしてこいつには顔がないんだ?」
「彼は殺される寸前に自分の顔をみずからむしりとったんです。魂の抜けた肉体を巨神たちに利用されるのが耐えられなくて……」
リンの言葉は最後まで聞けなかった。敵が突っこんでくる。まさしく、神のみが引きだすことのできるスピードで。残像すら視野に残らない。
衝撃を感じた。視界がぐるりと回転する。
気がつくと、レギウスは十数歩ほど吹き飛ばされて、結界の外の地面にうつ伏せに倒れていた。
肌から汗が蒸発していくのにも似た、ひんやりとした感触を覚えた。それが、自分の体内から時晶が抜けでていくときの感覚だと悟って、レギウスは背筋を冷たくする。
リンのくぐもった悲鳴。必死に顔を起こして肩越しに振り返る。左の脇腹に鋭い痛みが走った。こみあげてきたうめき声を意志の力で喉の奥に押し返す。
リンが顔のない男に組み敷かれていた。リンが手足をばたつかせて必死に抵抗するが、まったく意に介さない。右手でリンの両手首をがっちりと固め、左手でリンの巫女装束の襟を乱暴に引っ張る。股間にそそり立った男の尖兵(せんぺい)が服の上からリンの下腹部に押しあてられる。
「クッ!」
痛みを無視して起きあがる。傷ついた左の膝が体重を支えられず、前につんのめる。さきほど、一瞬のうちに強烈な打撃を左半身にくらったようだ。それでも、これぐらいのダメージで済んでいるのは、リンとの絆が衝撃の一部を吸収してくれたおかげだろう。普通の人間なら即死だったかもしれない。
体内に残されたエネルギーをかき集める。敵といっしょにリンがいるが、彼女を傷つけずに〈天亡〉を放つ自信はあった。
集中しろ、とおのれに呼びかける。相手が死んだ神のゾンビだろうとなんだろうと関係ない。
敵をぶちのめすのみ。
(おれは、そのためにリンの護衛士になったんだ!)
「リンから離れろ!」
純白の刀身を力いっぱい、振り切る。
鮮血と同じ色をした光の刃が空気を切り裂き、巻きこんで、行き場を失った竜巻のように荒れ狂う。顔のない神のゾンビの背中に真紅の衝撃波が激突する。
死んだ神がのけぞる。憤怒と苦悶の絶叫。
リンは男の身体を押しのけた。男は地面に転がり、激しくのたうちまわる。〈天亡〉をまともにくらった背中がぱっくりと割れていた。ただれた赤黒い肉が傷口からのぞいている。
レギウスは膝を折る。体力を使い果たしていた。立ちあがろうとすると膝が笑う。
リンがレギウスに駆け寄る。彼の腕を引っ張って、無理やり立たせる。
「……いまのうちに逃げろ、リン」
「あなたを置いていけません!」
「自分のことは自分でどうにかできる……」
「ムダ口をたたく元気があるなら足を動かしてください!」
いまは言い争っている場合じゃない。
レギウスは足に力をこめた。リンに支えられて歩きだす。奥歯を喰いしばる。涸れ果てた井戸から水を汲みだそうとしているような、そんな虚脱感を覚えた。〈神の骨〉をにぎる手の指が小刻みに震えた。心臓が過負荷にあえいでいる。乱れた自分の息遣いがやたらとうるさい。
案内人の少女が十数歩先に立って、じっとこちらをうかがっている。リンとレギウスが追いつくと、少女はなにごともなかったかのように歩を進めた。
と、十歩も歩かないうちに少女が立ち止まる。彼女の数歩先に、縦に細長い窓が開いていた。少女が目で窓を示す。その意味をレギウスは解する。
ここが〈破鏡の道〉の出口だ。
レギウスはうなり声をあげる。感覚のない足をどうにか動かして、出口に急ぐ。
背後に殺気を感じた。
作品名:銀の錬時術師と黒い狼_魔の島 作家名:那由他