小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

紅装のドリームスイーパー

INDEX|90ページ/98ページ|

次のページ前のページ
 

「薬袋さん、あなたは本当にこのまま消えてしまいたいと思ってるんですか? 正直に答えてください」
「それは……」
 花鈴はあたしを上目遣いで見てから、せつなげなため息をこぼした。
「わたし、もとに戻りたい。学校で、菜月や糸川君と……それに新城君とも……」
 うつむき、こぶしをギュッとにぎる。それだけで花鈴の気持ちを伝えるには充分だった。
「ルウ、わたしの願いをかなえてくれませんか?」
「ダメだ。なんと言われようと、それだけは認められない!」
「ルウ……」
「しつこいぞ、葵!」
「しかたがないですね。では、最後の手段です。ルウ、わたしは契約の履行をあなたに求めます」
「なんだって?」
「わたしに報酬をください。あなたと結んだ契約では、わたしがドリームスイーパーをやめるときに、あなたにできる範囲でわたしの希望をかなえてくれることになっています。よもや忘れたとは言わせませんよ、ルウ」
 あたしは目をしばたたく。葵はおかしそうに笑い、あたしに向かってウィンクした。
「ドリームスイーパーになるときに契約書に署名しましたよね。あの契約書にちゃんと書いてありますから、あとで確認してみてくださいね」
 そういえば、ドリームスイーパーにならないかと勧誘されたとき、「タダ働きにはならない。ちゃんと報酬が出る」とルウが言っていた。契約書は字が小さくて読む気がしなかったから、そんな条項があったなんて、あたしはついぞ知らなかった。
「わたしはドリームスイーパーをやめます。ですから、わたしに報酬をください。わたしの希望をかなえてください」
「そんなことはできない。論外だ」
「契約書の条文に制限事項はありません」
「それは、夢の世界にかかわるものが報酬の対象になる、という暗黙の了解があるからで……」
「契約を破るのですか、ルウ?」
 ルウがうなる。どうやらグウの音(ね)も出ないようだ。ややあって、黒ネコは地面にゴロリと寝そべった。ひどく人間くさい、悪態混じりの嘆息を洩らす。
「……きみは実に狡猾(こうかつ)だな、葵」
「八十四歳ですからね。老獪(ろうかい)というんですよ、わたしの場合」
 葵は勝利の笑みを浮かべる。とてもうれしそうな表情。その瞬間、少女の外見の向こう側に、豊富な人生経験を積んだ大人の女性の影を見たような気がした。
「どうせ私が拒否したところで、きみのことだから別の手段を考えてるんだろう?」
「目的を達成するためなら、あなたを恫喝することもいといませんよ、ルウ。それこそ、わたしの魂を売ってでも、あなたを動かしてみせます。あなたをウンと言わせるためなら、いっそのこと夢魔と手を組んだっていいと思っていますから」
「そんな時間はきみに残されてはいまい」
「そうでしょうか。やってみないとわかりませんよ?」
 ルウが金色の瞳を葵に向けると、葵は挑戦的に黒ネコを見返した。ルウはもう一度、大仰に嘆息した。
「きみとは長いあいだ、ずっと夢魔と戦ってきたな」
「かれこれ七十年以上ですね」
 七十年? あたしはびっくりする。ということは、葵はいまの翔馬よりも若い時分からドリームスイーパーとして夢魔と戦ってきたことになる。その時間の圧倒的な長さに、あたしは驚きを隠せなかった。
「わかった」
 ついにルウは折れた。
「きみのこれまでの働きに報いよう。これは私からのたむけだ。私の力で、島幸恵の存在に薬袋花鈴を上書きする。薬袋花鈴は、現実世界に戻る。これでいいんだな?」
「はい!」
 葵が大きくうなずく。それから、表情をふと和らげて、
「ありがとう、ルウ。感謝します」
「私もきみには感謝してる。きみはよくやってくれた。正直に言おう。きみと別れるのはつらい。まさしく断腸の思いだよ。ドリームスイーパーとの別れなんて、もう何度も経験してるんだがね。こればかりは慣れるということがないようだ」
「わたしもあなたには感謝しています、ルウ。あなたのその姿……わたしがかわいがってたネコの姿なんですから。最後にひとつだけ……抱いてもいいですか?」
 葵が腕を広げると、ルウはそのなかに喜々として飛びこんだ。葵は黒ネコをしっかりと抱きしめ、頭を優しくなでてやる。ルウは気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らした。葵に甘えるその姿は、どこから見てもネコの生態そのものだ。
 ルウを胸に抱いたまま、葵があたしと花鈴に目を向ける。予想外の展開に、花鈴は呆然としていた。あたしも同様だ。言葉もない。最大の難問を葵が解決してくれても、喜びも達成感もわかなかった。名状しがたい感情がさっきからあたしの心のなかでくすぶっている。悲しみ──そんなひと言ではとても言い表せない、気分が悪くなりそうな、苦くてしょっぱい味の感情。それが、あたしの舌をざらつかせた。
「葵……」
「そんな顔をしないで、芽衣。さっきも言ったけれど、わたしはもうすぐ死ぬんです。人間であるならば、これは避けられない定めなんですから。でも、若い薬袋さんには未来があります。その未来を、わたしが提供しましょう。わたしは充分に生きてきました。もう思い残すことはなにもありません」
「あたし、葵と出会ったばかりなんだよ?」
「そうですね。短いあいだでしたけど、あなたといっしょに戦えて、わたしは満足しています。ありがとう、芽衣」
 ぼんやりとしている花鈴に向かって、葵は物静かに声をかけた。
「薬袋さん」
「……はい」
「しっかりと生きてくださいね」
 花鈴はうなだれた。肩を震わせ、小さな声で返答する。「はい」と、ひと言だけ。
 葵はにっこりと微笑んだ。ルウを抱く腕に力をこめる。ルウは葵に身体を預け、心地よさげに目をつぶっている。
「さようなら、芽衣」
「……さようなら、葵」
「さようなら、薬袋さん」
「ありがとう、葵さん。わたし、あなたのことを決して……決して忘れません……」
 水面に映った像のように、葵の姿が揺らいだ。優しい笑みを残したまま、巫女装束の少女の輪郭がぼやけ、まるで強い直射日光にさらされた氷みたいに少しずつ溶けて消えていく。葵といっしょに黒ネコの姿も溶けていった。
 少女と黒ネコの姿が完全に溶けてなくなり──空虚な灰色の空間がそのあとに取り残された。
 あたしは叫んだ。
 喉の奥から、腹の底から、魂を揺さぶり、声を振りしぼって、叫んだ。
 あたしの視界がささくれだっていく。
 周囲の情景が細かくひび割れて、あたしは……。