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紅装のドリームスイーパー

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 もう少し注意深くしていれば、あるいは浩平は夢魔の化身だと看破していたかもしれない。が、いまはそれを悔やんでもしかたなかった。
 借りは必ず返す。このまま終わらせたりはしない。
「きみの結論は出たかな?」
 と、梁川。後ろに手をついて体重を預ける。タンクトップの小ぢんまりとした起伏が、これはこれでたいへん目の保養になった。
「いや、まだだ。でも……」
「でも?」
「花鈴は助ける。見殺しにしたりはしない」
「じゃあ、早見菜月は死者に戻すと?」
「それもイヤだ」
「二兎を追う者は一兎をも得ず、ということわざを知らないのかな、きみは?」
「それをいうなら『一石二鳥』っていう四字熟語だってあるぜ。わざわざことわざを持ちだされなくたって、そんなことは承知してる。花鈴は助ける。菜月も助ける。これでいいじゃないか」
「かなり矛盾したことを言ってるように聞こえるぞ」
「おれは節操がない男だからな。なんせ中身が黒ネコだとわかってるのに、女の子の頼みとなるとどうあっても耳を傾けないわけにはいかない」
「フム。やはり女の姿を選択しておいて正解だったかな。きみがそこまで私の容姿にご執心だとは予想外だったよ」
「そんな格好でのたまわってもまるで説得力がないな」
 梁川は声を殺して笑う。クネクネとしなをつくって、わざとらしく流し目を送る。
「こうかな?」
「……発情したメスネコにしか見えないぞ」
「私はネコじゃない。あの姿は葵が私に与えたものだ」
 おれは押し殺した声で言った。
「葵の飼いネコなんだろ? 黒ネコのルウって設定は?」
「本人からはそう聞いたがな。私も詳しくは知らない。知りたいとも思わないね」
「現実世界での葵はどこにいるんだ?」
「それを聞いてどうする?」
「彼女に会う。会って……」
「なにをするんだ? 自分はドリームスイーパーの芽衣だと明かすのか? なんのために?」
 なんのために? その質問におれは答えられなかった。おれが口をつぐむと、梁川はふと遠い目つきになって、薄い闇に塗りつぶされた窓へ視線を投げた。
「彼女がきみに会いたがるとはかぎるまい。きみには会いたくないと思うかもしれない」
「どうしてだよ?」
「きみはまだ子供だな」
 頭にきた。テーブルにこぶしをたたきつける。麦茶の入ったコップがビクンと震えた。
 梁川がおれと目を合わせる。メガネのつるを指で押しあげて位置を直し、聞きとれないほどの小さな声でささやいた。
「これだけは言っておこう。葵はきみなんかよりよほど大人だよ」
 おれは立ちあがり、ほとんど逃げるようにして梁川の部屋を飛びだした。
 身体の傷は癒えたが、惨めな気持ちはいまだにおれの胸のなかで執拗にくすぶっていた。

 駿平は食事のあいだずっと、興奮した口調で今日の試合の結果をしゃべりまくっていた。
 ときどきおれにハナシを振ってくる。「あの場面でのホームランはすごかったよね!」とか、「あそこで連続三振をとったんだよね!」とか、いちいちおれのコメントを求めてくる。
 適当に相槌を打ってやると、肯定的な評価をされたと解釈したのか、喜色満面で次の場面の解説に移る。身振り手振りを交えて、壊れたマシンガンみたいによくしゃべる。おかげで駿平の箸はちっともすすまない。
 母親がマジメな顔で聞き入っている。父親は……まあ、いつもの調子だ。知らん顔をして黙々と箸を運んでいる。いつでもどんなことがあっても、このひとはマイペースを崩さない。そういう父親をおれはひそかに尊敬している。
 菜月の名前が出た。駿平の目がトロンとうるむ。こいつがなにを妄想しているのか、知りたいとも思わないが、兄として忠告のひとつぐらいしておいたほうがいいかもしれない。
 おれは、沙綾さんにいったいなにを吹きこんだのか、母親をとことん問いつめたかったが、かえってやぶへびになりそうな気がして結局、口には出さなかった。せめて釘を刺しておきたいところだが、下手に刺激するのも危険だ。なにせ蜂の巣のようなものだからな。扱いは慎重にしなければならない。
 風呂に入ったときに身体を念入りに点検した。口はなんともなかった。すっかり傷が治っている。浩平に蹴られたところ──胸と左の脇腹には、黄ばんだアザが残っていたが、これも二、三日で消えるだろう。
 熱いお湯につかって、つらつらと考える。花鈴、菜月、大樹、沙綾さんに幸恵さん、葵、梁川、ついでに浩平のことも。おれを中心にぐるぐると回っている。うぬぼれなんかじゃなくて、そう思った。それぞれ回転するスピードと距離が異なっているだけで、みんなおれの周りを規則的な周期で回っている。遠心力と引力みたいなものが微妙につりあっている。そのバランスが崩れたとき──みんなはどこかへ飛んでいってしまうんだろう。おれだけを残して。
 自分の部屋に戻った。腹がふくれるほど梁川のところで麦茶を飲んだのに、風呂上がりの麦茶は格別にうまい。ほったらかしにしていたケータイを手にとる。メールがたまっていた。
 菜月から。「今日はありがとう」「また明日、学校で」というメッセージのあとに顔文字がズラズラと並ぶ。笑った。菜月らしい。
 大樹からもメールが届いていた。文面は「ありがとな!」だけ。いかにも豪放磊落(ごうほうらいらく)な大樹らしい。
 森からのメールは呪いに満ちていた。いわく、「梁川となにがあったのか、きちんと報告しろよ!」のあとに「呪呪呪……」と「呪」が二十個以上も続いていた。笑えない。
 電話帳を探すと「早見浩平」の名前が消えていた。着信履歴も残っていない。ヤツはこの世界から立ち去ったのだろう。花鈴を道連れにして。ムカついた。
 梁川からはなにも届いていなかった。必要ないとでも思っているのだろう。おれからも梁川にメールを送る気はない。
 メールの返事を書いて、送信。明日、学校で。菜月とも、大樹とも。
 机の上の文庫本を手に取り、表紙に描かれた美少女を眼底に焼きつける。彼女が夢魔と戦うところを想像した。少しでもイメージトレーニングになればいいが、効果のほどはわからない。
 早めにベッドにもぐりこむ。今夜は忙しくなりそうだ。なんといっても、これから強大な夢魔と対決しなければならない。それに、借りはできるだけ早く返すにこしたことはない。いつまでも借りを抱えこんでおくつもりは毛頭なかった。
 目をつぶると、ドッといろんな雑念が心の表層にあふれた。
 思い出。幼稚園からいっしょだったおれたち四人の、共通の思い出。いろんなことがあった。
 中学校の入学式。いきなり大樹が遅刻してきた。
 中学三年のときの修学旅行。大樹と風呂のなかでケンカした。ああ、でもあれはこの世界ではなかったことになっているんだな。菜月が交通事故で死んだあとだったから……。
 幼稚園。運動会のかけっこでおれが一等賞をとって、ご褒美に花鈴と菜月からお手製のメダルをもらった。
 いつだったかは思いだせないけど、少年野球の試合で大樹がボコボコに打たれて泣いていたっけ。花鈴が一生懸命慰めていた。その思い出もいまはこの世界から消えている……。
 思い出が次々に立ち現われてはほかの思い出を引き連れて──
 小学生だったときのことを卒然と思いだした。