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紅装のドリームスイーパー

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 翔馬と目が合った。背筋が凍りつく。悲鳴をあげないだけの自制心はかろうじて残っていたが、銃を撃つ気力はすでに失せていた。
 葵が必死になってあたしの名前を呼ぶ。いくら呼んでも反応のないあたしにじれたルウが、鋭い爪をあたしの右足の膝裏に喰いこませる。その痛みも──夢のなかにいることを忘れてしまいそうな強い刺激さえもが、あたしの心のなかを空気のように素通りしていく。
 模造品(レプリカント)の集団がジリジリと接近してきた。もう距離は十メートルもない。
 葵は変容のフレーズを唱え、武器を斬夢刀に持ちかえた。一気に距離をつめ、先頭にいた人間に斬りつける。新城翔馬に。
 翔馬の身体が腰から両断される。翔馬が叫ぶ。花鈴の名前を。
 そのとたん、模造品(レプリカント)がいっせいに容貌を変えた。
 今度こそ、あたしの口から短い悲鳴が洩れた。
 全員が翔馬の模造品(レプリカント)となっていた。さっきから攻撃しているのに、いっこうに数を減じる様子のない百体近い翔馬たちが、声をそろえて壊れたレコーダーみたいに輪唱する。
 花鈴、花鈴、花鈴と。英雄をたたえるかのように。
 ボロボロのコンクリートを寄せ集めたペントハウス──そのてっぺんに、二重映しとなった影がふわりと舞い降りる。
 黒一色の装い。黒い上下のスーツ、胸元には黒いクラバット。黒いマントが風もないのにはためいている。右目の下に銀色の涙滴がぶら下がった、純白の仮面。
 黒衣の影の輪郭がブレる。ピントの合っていない映像を見ているかのようだった。がっしりと張った怒り肩に、なだらかな傾斜のなで肩の線が重なる。
 夢魔。
 人間の、決して消えることのない負の感情のよどみから生まれた、闇のなかの反逆者。夢を壊す者。あたしたちドリームスイーパーの敵。
 そう、敵。斃(たお)すべき、敵。
 あたしの心のなかで、「敵」という単語が反響する。それが奇妙な余韻(よいん)を残して、心の奥底へと沈殿していく。
 夢魔が疾駆する。風のように、稲妻のように、目に見えない足場を踏みしめ、空中を音もなく駆けぬける。
 笑う。夢魔が、高らかに。その声もが二重だった。しゃがれた男の声に、軽やかな少女の声が重なる。
「斬(ザン)!」
 葵が叫んだ。突進してきた夢魔に斬夢刀を振り下ろす。絶妙のタイミング。が、刃は空を斬る。
 真っ黒な残像がぶれた。夢魔が左右に分かれる。男の影と女の影。
 葵がギョッとする。とっさに刀を返せない。
 ふたつに分かれた夢魔が腕を突きだす。ふたつの黒いこぶしが葵の腹部をえぐる。葵が悲鳴をあげる。後ろに吹き飛ばされた。物干し台をいくつも巻き添えにして、屋上を囲む錆びたフェンスに背中から激突する。フェンスをあっさりと突き破った。屋上の向こうへとスローモーションで落ちていく。くぐもった悲鳴の残響だけを残して、葵の姿が見えなくなった。
 ルウが背中の毛を逆立て、苦しげなうめき声を洩らす。
「芽衣、夢魔を……」
 ルウの言葉が途切れる。ふたつに分かれた夢魔が再び、ひとつになった。二重映しになった仮面の奥から、冷たい視線があたしとルウに注がれる。
 あたしの全身はさっきから凝固したままだった。翔馬の模造品(レプリカント)に包囲された。翔馬たちが腕を振りあげ、声をからしてひとつの名前を連呼する。花鈴の名前を。
 歯を喰いしばる。錆びついたような筋肉をどうにか動かす。にぎっていた夢砕銃の銃口をゆっくりと持ちあげ、夢魔に狙いをつける。夢魔は銃口を向けられても平然としていた。
「きみにぼくは撃てない」
「あなたにわたしは撃てない」
 夢魔が口を開く。ふたつの声──きしむような男の声と、歌うような少女の声で、同じ言葉を口にする。
 あたしは身震いする。少女の声には聞き覚えがあった。
 夢魔の正体って、まさか──
 翔馬たちが列をつくって、あたしとルウの周囲をぐるぐると回る。こぶしを何度も突きあげる。たくさんの口から吐きだされた花鈴の名前が空中にゆらゆらと舞いあがり、灰色の空に吸いこまれていった。
 溶けていく。夢の世界が、あたしの視界が。熱にあぶられた氷のように、銀色の蜃気楼が空間のほころびから立ちのぼり、あたしの視野を周辺から侵食していく。
 トリガーにかけた指がひきつった。夢魔がせせら笑う。肩を揺らし、黒いマントをなびかせて。ルウがさっきからなにかわめいているが、あたしの耳には届かない。
 空気が凍りついていた。世界が急速に色あせていく。灰色の濃淡に沈んだ景色のなかで、あたしと夢魔だけが依然として色彩をたもっていた。深紅と黒。血と闇の色。絶対の対立。
「きみにぼくは撃てない。なぜなら……」
 夢魔が繰り返す。しゃがれた男の声だけだ。女の声は聞こえない。夢魔の輪郭がひとつの線に収斂(しゅうれん)する。ほっそりとしたその姿──少女のスタイル。
「雷弾(ライダン)!」
 あたしは叫んだ。トリガーを引きしぼる。なにも反応がない。夢砕銃は沈黙したままだった。半分パニックになって、何度もトリガーを引く。弾が切れるはずはないのに、銃口からはなにも飛びださない。
 わかっている。あたしは攻撃をためらっている──それが、夢砕銃の攻撃力を無効にしている。武器をドリームブレイカーに変えても結果は同じだろう。なまくらになった刃が夢魔を斬れるとは思えない。
 夢魔が仮面に手を伸ばす。ゆっくりと仮面を外した。仮面の下から整った顔立ちがのぞく。美しい少女。少女が微笑む。うつろな笑み。ふたつの瞳にはいっさいの光が欠けていた。
 少女は──花鈴だった。
 あたしは呆然と花鈴の顔を見つめた。悪夢がべっとりとした粘液になって、あたしの肌にへばりついてきたような、気味の悪い感覚を覚えた。
 翔馬たちがピタッと立ち止まった。全員、内側を向き、声を限りに叫ぶ。花鈴──その名前だけを。
 花鈴の目尻から黒い涙があふれだす。雪花石膏(アラバスター)のような白い頬が、黒い涙に汚されていく。
「あなたにわたしは撃てない……なぜなら、わたしがあなたを殺すから」
 花鈴の右手が動く。黒い光が花鈴の右手に凝集する。苦痛に身をよじる枝みたいな、曲がりくねった刃を持つ漆黒の剣が現れた。
 花鈴が黒い剣を打ち振る。あたしはとっさに夢砕銃を頭上にかざした。ムダだった。闇を凝り固めたようなまがまがしい刃は、いとも簡単に夢砕銃の銃身を砕いた。
 あたしは黒い剣に引き裂かれた。頭のてっぺんから、爪先まで。
 凍てついた空気を震わせて、ルウがうなっている。
 花鈴が泣いている。黒い涙が飛び散る。夢魔の仮面がガラスみたいに破裂した。
 翔馬たちがゲラゲラと腹を抱えて笑っていた。
 あたしの視界が──
 暗転する。