紅装のドリームスイーパー
Real Level.1 ──覚醒
目を開けた。
いつもの自分の部屋。朝の清冽(せいれつ)な陽射しがカーテンの向こうから室内を照らしていた。
机の上の目覚まし時計に目をやると、いつも起きている時間よりも三十分以上早かった。
短い吐息をつく。
もう一度眠ろうと思って目をつぶり──眠気がきれいさっぱり吹き飛んでいるのを自覚する。
舌打ちした。ベッドの上に上半身を起こす。またもや吐息が洩れた。
最悪の目覚めだった。
どうしてあんな悪夢を見たのか、その原因には心当たりがあった。
あと三週間ほどで菜月の二回目の命日──三回忌だ。明日の土曜日は、クラスメイトといっしょに彼女のお墓参りに行く約束をしている。それを強く意識していたから、菜月が交通事故で死んだときの夢を見たのだろう。
二年前のあの日──菜月は、おれの目の前でクルマにはねられ、救急車で運ばれたさきの病院で間もなく死亡した。
たったいま夢で見たシーンとそれほど大きく違わない。交差点で信号待ちしていたときに、直進車と衝突した右折車が歩道に突っこんできて、横断歩道の手前に立っていた菜月を巻きこんだ。彼女がクルマに突き飛ばされた瞬間は、おれの脳裏にコマ落としの映像となって刻みこまれている。その映像は、二年経ったいまでも色あせていない。
たぶん、あの場にいたあとのふたりも同様だろう。あのふたりもおれと同じような悪夢を見ているのだろうか、と気になる。それを正面から尋ねる勇気はなかった。それに、そのうちのひとりは、菜月の死がきっかけで疎遠になってしまった。前回、顔を突きあわせたのは、菜月の一周忌の法事のときだから、かれこれ一年近く会っていない。
パジャマ代わりにしているトレーナーを着たまま、階段を降りて一階のリビングへ足を向ける。普段よりも早い時間に起きてきたおれを目にして母親が片方の眉をあげる。野球だけが生きがいの、中学二年になる弟の駿平(しゅんぺい)は、毎朝の練習があるのでおれよりも起きるのが早い。「おはよう、兄さん」と呑気な声をかけてきた駿平は、こんがりと焼いたトーストにかたちを丸く整えた目玉焼き、コップになみなみと注いだ牛乳という、我が家の朝食の定番メニューをすでに半分以上たいらげていた。
テーブルの自分の定位置につく。ほどなく用意された駿平と同じメニューの朝食を黙々と口に運ぶ。「今日は早いのね」という母親のからかうような声に、適当に相槌を打って調子を合わせる。朝食のあと、顔を洗って歯をみがいた。
教科書とノートをスクールバックにつめこむ。昨夜、遅くまで読んでいたラノベの文庫本が、机の上の目覚まし時計の陰でつつましやかな自己主張をしていた。やたらと露出度の高い深紅(クリムゾン)のコスチュームに身を包んだ金髪の美少女が、文庫本の表紙のなかからせつなげな眼差しでおれを見上げている。いまの学校のクラスメイトである森啓太(もりけいた)から借りた本だった。迷ったすえに、そいつもバックのなかに放りこんだ。休み時間を利用すれば学校でも続きを読めるだろう。
制服に着替えているあいだに駿平が家を出る。もう一度、一階のリビングに降りると、ビジネススーツ姿の父親が尻を半分ずらした姿勢で椅子に腰かけていた。熱心に新聞を読んでいる。紙面から顔をあげようともしない。「おはよう」と声をかけても、言葉の不明瞭な生返事しか返ってこなかった。うん、今朝も平常運転だ。
いつもと同じ朝、いつもと同じ家族、いつもと同じ光景。
でも、おれだけがいつもと同じでいられなかった。あんな夢を見たあとでは……。
そのことに、父親も母親も気づかない。むしろ、気づいてほしくない。悪夢におびえているなんて誤解されたらどうにもバツが悪すぎる。
玄関で靴をはきながら肩越しに投げかけた「行ってきます!」に、母親の威勢のいい声が返ってくる。
家を出て、わが愛しき通学の足──この春に新調したばかりの自転車にまたがった。ゆっくりとこぎだす。おれがかよっている県立の城南高校までは自転車で十分ちょっとの道のりだ。近道をしていけば七、八分で到着する。それをわざわざ遠回りしていくのは、「あの道」をとおりたくないからだった。
クルマ一台分の幅しかない狭い路地で区切られた住宅街を抜けて、二車線の道路に出る。最初の十字路──そこで自転車を止め、首を伸ばして、あるかなしの下り坂になった右の道をうかがう。この道をとおったほうが近道なのだが、通学路からはわざと外している。右へ進むと、中央分離帯がある四車線の国道に突きあたる。その国道を西の方角へ三百メートルほど行ったところに、バイパス道路と交わる信号のついた大きな交差点があった。
菜月が亡くなった事故現場だ。
二年前のあの日から、事故現場へ足を運ぶのは月命日の日だけにしていた。いくら近道でも、毎朝そこを自転車でとおる気は起きなかったのだ。
しばらくのあいだ、十字路の真ん中で右の道の様子をうかがっていたら、新聞を取りに外へ出てきたパジャマ姿の初老の男性と目が合った。男性が怪訝(けげん)な面持ちでおれを見返す。おれは軽く肩をすくめ、ペダルに力をこめて自転車を走らせる。
よく晴れていた。
初夏の青空を一直線に横切って、真っ白な飛行機雲が切れ切れに伸びていく。
そう──菜月が死んだあの日もこんな天気だった。
学校に着くやいなや、森がおれの席にいそいそと近寄ってきた。
「読んだか、あれ?」
銀縁のメガネの奥で森が目を細める。よほど感想を聞きたいらしい。「絶対におもしろいから、読んでみろ」というお墨つきで、森から本を借りたのが一昨日。半分以上は読んだ。いまのところ、期待を裏切っていない。主人公である勇者の必殺技のネーミングがあまりにもチープすぎて失笑モノだが、あれは作者がわざと狙ってやっていることなのかもしれない。
おもしろい、続きを読んでみたい、と答えると、森の目尻がたちまち緩む。
「あれ、四巻まで出てるんだ。来週の月曜日に二巻を持ってきてやるよ」
森とラノベ談義でひとしきり盛りあがっていると、教室の後ろの出入口からひとりの女子生徒が入ってくる。「おはよう」と周囲に明るく声を振りまきながら、机と机のあいだの隙間をすりぬけていく彼女を、おれは視野の端で追った。
薬袋花鈴(みないかりん)。
幼稚園から始まって、小学校も中学校もいっしょだった幼なじみ。
背中でふんわりと渦を巻く亜麻色の長い髪。二重まぶたに縁取られたつぶらな瞳。すっきりととおった鼻筋に丸みを帯びた顔の輪郭。紺色のブレザーの制服が颯爽(さっそう)とひるがえる。
まさしく、「美少女」という言葉にふさわしい容姿の持ち主だ。森の鋭い観察眼によれば、一年生の女子、いや上級生も含めた全校の女子のなかでも五本の指に入る逸材だそうである。おれも同感だ。
花鈴がこちらを向く。穏やかに微笑んだ。でも、なぜだか温かみを感じない。
おれはうなずいてみせる。花鈴も小さくうなずきを返す。痛みをこらえるような表情が一瞬、彼女の顔をよぎる。
わかっている。花鈴もまた、おれと同じ気持ちを抱えていることを。
菜月が死んだあのとき、おれといっしょにいたふたりのクラスメイトのうちのひとりは彼女──花鈴だった。
作品名:紅装のドリームスイーパー 作家名:那由他