紅装のドリームスイーパー
さっきよりもゲシュタルトにかなり近づいた。ひとつひとつの夢を巨大な球形として見分けることができる。夢と夢のあいだは意外に隙間がなかった。なかにはふたつの夢が融合して、くっついたシャボン玉みたいなかたちをしたものもあった。
「夢を共有することは珍しくない。ただ、夢を共有してるのが顔見知りの人間同士である、というのはかなりまれだ。たいていは顔も知らない他人であることが多い」
「つまり、あのふたりは同じ夢を見てるってこと?」
「そういうことになる」
白い光に照らされて、ルウの姿がくっきりと浮かびあがる。黒ネコの尻尾をつかんで空中を漂うあたしは、さながら命綱につかまった宇宙飛行士のようだった。
ルウが身をくねらせて虚空を器用に泳いでいく。あたしはその後ろを黙ってついていった。手足を動かすと、水を蹴るような、かすかな抵抗を感じる。呼吸は普通にできるが、周囲に満ちている得体の知れないモノは空気と違うような気がした。もっと粘性が高く、トロリとした触感がある。水で希釈した蜂蜜のなかを泳いでいる──そんな感覚を覚えた。
近くで夢の球体を見ると、白い壁の向こう側でなにかが動いているのが見えた。それは夢の内容──この球体を生成した人間がいままさに見ている夢なのだろう。まるでタマゴの殻のなかで胎児が動いているかのようだった。いったい、どんな夢を見ているのだろう。少し興味を覚えたが、ルウがあたしをどんどん引っ張っていく。なにも支えがない空間では立ち止まることもできない。
夢の球体を回りこんでいくと、丸みを帯びた曲面の向こうから真っ黒な穴が現れた。
白い光を背景に黒々と浮かびあがったそれは、「穴」としか表現のしようがないシロモノだった。大きさは──かなり大きい。直径は三十メートル以上ありそうだ。
ルウが空中で静止する。慣性の法則を無視して、あたしもピタリとその場で止まる。
「これが悪夢だ」
ルウが金色の妖瞳を真っ黒な穴にひたと据えて、展示物を紹介する博物館の職員のような口調で言う。声にわずかながら不快感がにじんでいるような気がした。
あたしは穴をじっくりと観察する。立体感がない。ほかの夢は曲面がはっきりとわかる球体だが、悪夢──黒い夢は厚みや奥行きを感じさせなかった。空中にぽっかりと口を開けた穴。もしもブラックホールを目視できるとしたら、ちょうどこのように見えるのかもしれない。
穴の表面でときおり、赤い稲妻がひらめいた。いまさらながら、音がまったくしないことに気づく。静かだった。キーンと耳鳴りがするぐらいに。ありとあらゆる音が目の前の穴に吸いこまれていくように思えた。
「人間が悪夢を見る原因はいろいろある。日常のストレス、過去の経験で受けたトラウマ、恐怖や不安、あるいは狂気……心のなかに蓄積された負の感情の投射が悪夢だ。誰でも悪夢は見る。だが、悪夢は必要悪でもある。人間に警告し、注意を促す。なくなればいいというものじゃない」
見ているうちに穴がだんだんと薄くなっていった。無数の小さなかけらへと分解し、まるで揮発性の物質が蒸発するように、急速に縮んで消えていく。悪夢が消滅するまで、ほんの数秒しかかからなかった。
「悪夢の寿命は極端に短い。人間は悪夢を見るとすぐに目覚めるからな。だが、なかにはいつまでも消えずに残ってる悪夢もある。負の感情が抱えきれないほど大きい場合は悪夢にとらわれやすい。悪夢にとらわれた人間は、ますます負の感情を抱えこむことになる。そうした悪循環の果てに生まれるのが──夢魔だ」
「夢魔って?」
「私と葵が戦ってる敵──夢をむしばみ、押しつぶして、最終的にゲシュタルトそのものを破壊する存在だ」
英語の授業中に居眠りしたときに見た夢──あの夢に出てきた真っ黒な影を思いだした。あれが夢魔なの、と尋ねると、黒ネコは首を横に振る。
「あれは夢魔の配下の尖兵(せんぺい)だ。知性はないし、独自の意志も持たない。夢魔は私と同じく、独立した意志を持ってる」
ルウと会話しているあいだに、少し離れたところに浮かんでいた夢の球体の色が濁りだす。雪が汚れて真っ黒になるのを加速度的に再現しているかのようだった。真っ白だった色がしだいに濃い灰色へと変化し、どんどん暗くなっていく。闇を凝り固めたかのような漆黒の球体に変わるまで、ほんのわずかな時間を要しただけだった。
翔馬が見ていた悪夢のことが思い浮かんだ。あの夢も、外から見るとこれと同じなのだろう。真っ黒な夢。闇が凝縮された、光の届かない夢。
「私は、いまきみがいるゲシュタルトのドリームマスターだ。何十万人もの人間で構成される潜在意識の領域がひとつに合わさって、私というドリームマスターをつくりだしてる。私は自分のゲシュタルトを存続させたい。夢魔の攻撃からゲシュタルトを守り抜きたい。そのために、葵といっしょに夢魔と戦ってる」
「それで……夢魔にゲシュタルトを破壊されたらどうなるの?」
またもや視界が移り変わる。
闇のなかに廃墟がたたずんでいた。砂漠に揺らめく蜃気楼みたいに、遠い光を浴びておぼろげに輪郭を連ねている。一見すると、崩れ落ちた城郭のようにも見えた。色彩のない建物の残骸が虚空に向かって背伸びしている。ひとの気配はない。死に絶えていた。とうの昔に。
ルウの静かな声が聞こえてくる。黒ネコの声に感情の響きはない。悲しみも、悔しさも、憎しみも、深みのある声音からはいっさい感じとれなかった。
「ここにはかつて、数百万の人間の夢が集まる大規模なゲシュタルトがあった。数年前に夢魔の攻撃を受けて破壊され……いまは見てのとおり、ゲシュタルトの中心核の廃墟しか残っていない。ゲシュタルトが破壊されると、人間は夢を見ることができなくなる。いつまでも、というわけではない。やがて新しいゲシュタルトが生まれ、人間はふたたび夢を見るようになる。だが、夢を見ることがなくなった人間は集団的なヒステリックに巻きこまれやすい」
あたしはゲシュタルトの廃墟をながめた。闇に沈んだ残骸は、なんともいえない物悲しい気持ちをかきたてた。冷めたルウの声が続く。
「夢は、現実世界と表裏一体の関係にある。夢が失われる、ということは自分の存在の半分が失われる、ということに等しい。そのような状態では、まともな精神活動がおぼつかなくなるのも当然だ。不安定になった人間の集団が他者になにをしでかすか──それはこれまでの歴史が繰り返し証明してる」
「……それって、もしかしたら戦争のこと? 戦争の原因は人間が夢を見なくなったためだ、と言いたいわけ?」
「それがすべての原因だ、と主張するつもりはない。けれども、戦争や革命といった歴史的な大事件の多くは、人間が夢を失ったために起きた、と断言できる。夢は普段あまり意識されないだけで、その実、人間の活動に大きな影響を及ぼしてる。私のようなゲシュタルトのドリームマスターがいるのは、人類という種の存続を安定的にたもつための、一種の防御機構でもあるのだ」
「あたし……完全には理解できないかもしれない」
作品名:紅装のドリームスイーパー 作家名:那由他