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御手紙 葉
御手紙 葉
novelistID. 61622
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ふるさとカフェ

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私は額を流れる汗を拭うことも忘れて、ただその畦道を歩き続けていた。周囲には一面に田んぼが広がっており、近くの山からけたたましいほどの蝉の鳴き声が反響していた。本当に夏真っ盛りと言うような景色が広がっていた。
 私はスーツケースを引いて、ずっと足を踏み出していたが、そこでこの村を離れた日のことを思い返してしまう。
 ――こんな家、潰れてしまえばいい!
 ――私だって、あんたの大事な物を奪ってやるよ!
 あの時、罵倒の声を吐き出した自分は本当に若く、今では少し罪の意識もあった。だが、この村を出たことを後悔はしていなかった。あの当時、私にはどうしても譲れない想いがあったのだ。それを否定されるのは、もちろん今だって嫌なのだ。
 そうして畦道から坂を上がり、鬱蒼と生え渡る木々の間を抜けていくと、やがて視界が開けた見渡しのいい場所へと辿り着いた。
 ようやく村への入り口に来たか、と私はハンカチを取り出して額の汗を拭いた。だが、そこで顔を上げ、私は思わず「え」と声を漏らしてしまった。
 十年前にはなかったその店が、入り口に建っていたのだ。それは一見ログハウスのような造りをしていたが、まだぴかぴかと輝くように新しかった。
 なんでどうしてこんなところに……と私は思わず立ち尽くしてその店をじっと見つめた。屋根から小さな窓が一つ覗いた、どこか異国の雰囲気を醸し出した建物だった。一階にはテラスがあり、テーブルがいくつか配されていた。
 こんな田舎に喫茶店があるとは信じられず、私は思わずスーツケースを引いて店先まで近づいていた。店の前にはブラックボードが置かれていて、喫茶店『ミューズ』と書かれていた。
 ジャズ喫茶か、クラシック喫茶か、と私は興味を惹かれたが、そこでふと足を止めた。この店に働く人が、もしかしたら昔の知り合いかもしれないのだ。
 村に帰郷したのだから、知り合いに会うのは全く当然のことなのだが、それでも顔を合わせるのは気が引けた。私には元々友達もおらず、この村ではいつも一人で行動していたのだ。ただ、一人だけ仲良くなろうとしてくれた女の子がいたことも確かで、彼女は今どうしているのだろう、とふと思った。
 こうして逡巡していてもしょうがないと思い、私はそっとスーツケースを引いて、店内に入ることにした。ガラス張りのドアを開いた瞬間、その透明感のある音色が聞こえてきた。
 それは、モーツァルトのピアノソナタ ハ長調 K545 第2楽章だった。クラシック好きの私はその選曲にこの店が好きになってしまった。BGMだけでなく、その店内の様子がとても落ち着いていて、私好みだったのだ。
 私がドアを潜った瞬間、カウンターの奥で何か作業していた男性がこちらへと振り向き、「いらっしゃいませ!」と挨拶してきた。
 私は彼が知り合いなのではないか、と身構えてしまったが、スーツケースを引きながら店内に入ってくる際にその顔を見ても、知っている顔ではなかったのだ。
 短髪の艶やかなその細身の男性は、エプロンを着けてカウンターを拭いているようだったけれど、私が歩み寄ってくると、すぐにカウンターを回って側に立った。
 なかなか背がすらりと高く、顔も端正だった。どう見ても二十代後半ぐらいに見えるその男性は、「お好きな席へどうぞ」と店内へと手を差し向けた。
 私は周囲を改めて見渡してみたが、七色のランタンが淡い光をカウンターに落としており、壁には踊り子の絵が掲げられていた。ゆったりと間隔を置いてテーブルが配されていた。
 私は少し逡巡した後、テラスに続くドアへと振り向き、「そちら、いいですか?」と首を傾げてみせた。「とても見晴らしのいい場所みたいで、ちょっとゆっくりしてみたいんです」
「えっと、暑い場所かもしれませんが、よろしいですか?」
 男性がその人の良さそうな笑顔を少しだけ困ったように変えて、言った。私は頷き、テラスへと続くドアを開いた。
 その瞬間、ふわりと柔らかい風が吹き付けてきて、私の長い髪を浮き上がらせた。いい風、と思わずつぶやきながら私はテラスへと足を踏み出したが、そこで「いらっしゃいませ!」と明るい声が聞こえてきた。
 すると、カウンターの奥の厨房から一人の女性が歩いてきて、彼女はウェイトレスの服装をしており、弾むような足取りで近づいてきた。
 私は彼女の顔を見つめて、その花が咲いたような笑顔に目が惹き付けられるのを感じた。濃いブラウンの髪を黒いゴムで結わえていて、その房はきらきらと照明の光に煌いた。
 オーナーの男性と並んでも、そう変わらないほど背が高く、スカートから下には、とても美しい足が覗いていた。私は彼女へとそっと振り向き、頭を下げた。
「お邪魔しています」
「テラス席、ですね。今窓を開けて、冷たい風が当たるようにしますので」
 ウェイトレスはそう言って、すぐにテラス側の大きな窓を開けて、店内の冷房の効いた風が吹いてくるようにした。私は彼女の細やかな気配りに、とても優しい人だな、と思った。
 単なる店員としての配慮だけではなく、人に対する深い思いやりを感じたのだ。私はテラスの中央の席に腰を下ろして、脇にスーツケースを置いた。
 目の前に小さな柵があり、その向こうはもう感嘆してしまうほどに美しい景色が広がっていた。なだらかな山々の稜線は鮮やかなグラデーションを描いて美しく、先程私が歩いてきた畦道は一面の緑で囲まれていた。
 何よりも素晴らしいのは、この丘の上から見える景色がどんな障害もなく、一面に見渡せるものだということだった。私は魂を奪われそうになるほど見惚れてしまった。
 そこでウェイトレスの女性がメニューを持ってきて、私に差し出した。ちらりとコーヒーの欄を見て、すぐに「マンデリンで」と言った。「それと、マンデリンに合う甘いデザートを……ショートケーキを一つで」
「かしこまりました。準備が済むまで、ゆっくりと景色を堪能してくださいね」
 ウェイトレスはそう言って丁寧な礼をすると、すぐに店内へと戻っていった。私はその後姿をじっと見つめて、本当に自然な客への応対に心地よく感じ、とてもいい人だな、と思った。そうして、彼女が知り合いではないことに、ほっとしている自分がいた。
 私は再び視線を山麓の風景へと向け、じっとそれを眺めながら色々と当時のことを思い出して、懐かしく感じた。まさか、吐き気がするほどに嫌いだったこの景色が、何物にも代え難い貴重な財産であると感じるなど、自分は本当に変わったのだな、と思った。
 雲一つない青空の下で、緑が微風に揺れ、優しく流動していた。その田舎の景色は、都会で長年暮らしていた私の心を、瞬時にほぐして癒してくれた。
 なんて素敵な場所なのだろう、と心から思った。そして、こんなにもこの故郷を好きになろうとしているのはどうしてだろう、と私は考えた。
 そこでふと「失礼します」と背後から声が聞こえて振り向くと、ウェイトレスの女性が満面の笑みで立っていた。「マンデリンとショートケーキをお持ちしました」
 私は小さくうなずき、そっと乗り出した上半身を引いて、彼女がテーブルにカップとソーサ、ショートケーキの皿を置きやすいようにと気を遣った。
作品名:ふるさとカフェ 作家名:御手紙 葉