Best Friend
彼女は声を潜めて囁いてきて、私の手にその本を握らせたのだ。そうしてこう言ったのだ。
――瑞希だけに、私だけのとっておきの小説を教えてあげるわ。まだ誰にも教えてないのよ。
瑞希だけに。とっておきの……
私はもう止め処なく流れてくる涙をそのままにして、本のページを濡らして染みを作ることを繰り返した。
私の目の前に新たな道が一つ、拓けたのを感じた気がした。それはまっすぐに未知なる世界へと伸びていて、それはきっと菜月の想いへと続いているのだと思う。
だから、私は――。
鞄の中のその紙の束を、ぎゅっと握った。
*
――それから、数年後。
菜月が好きだったその喫茶店が閉店すると聞いて、私はその最後の日に駆け付けたのだった。扉はいつもと変わらず照明の光によって擦りガラスをキラキラと輝かせていたが、その先にはたくさんの人々の笑顔が華やいでいた。
今までありがとうございました、と常連らしき女性客の集団がマスターへと花束を渡していた。今までその男性へと意識を向けたことはなかったが、今、私も本当に感謝の言葉を伝えたかった。
女性客が帰っていくまで待った後、私はマスターへと近づき、今までありがとうございました、と頭を下げた。
「ああ、菜月さんと一緒に来てた方ですね。本当に懐かしいです」
最近通うことがなくなった私に、マスターの男性は微笑みかけ、確かに覚えていてくれたらしかった。
「菜月さんがあんなことになってしまって……私の喫茶店を本当に気に入ってくれたので、残念です」
「ここで菜月と一緒に過ごす時間が、どんなに私にとって大切だったか、言葉では言い表せないくらいです。本当に今までありがとうございました」
「いいえ。菜月さんが大切にしていた友達ですから、あなたも本当に優しい方だと思っていました」
私はふっと自嘲げに笑って首を振った。
「私なんて、いつも菜月にわがまま言ってばかりいて……とても大切な友達とは思ってなんていなかったと思います……」
マスターの男性は細い目をさらに糸のようにさせ、にっこりと微笑んで「そんなことないですよ」と語った。
「でも、私といても、煩わしかったんじゃないかな」
「いいえ。それは絶対にありません。私、以前菜月さんにあなたとの関係を聞いてみたことがあったんです。そしたら、菜月さんは――」
私にとって誰よりも大切な一番の親友なんですよ。あの子ぐらい、仲が良い友達なんていませんから。
私の心がすっと浮き上がり、ジャズの落ち着いた音色に溶け込んで吹き抜けを突き抜けていった。
「だから、菜月さんはあなたのことを一番の親友だと思っていたみたいですよ」
そんな、だって、菜月は……。
私はそっと鞄の中のその本に触れた。彼女がそれを差し出した時の言葉が――。
『瑞希だけに――』
私の瞼から一つの雫が落ち、宙に瞬いた。
「それより、受賞おめでとうございます」
マスターは手を差し出して、握手を求めてきた。私はうなずき、彼に微笑みを向けた。
私は五か月前、新人賞を取り、作家になった。
それも菜月のおかげだった。彼女が私に新しい可能性を示してくれなかったら、一歩踏み出すことはできていなかったと思う。
私の処女作、『友』は今嬉しいことにベストセラーとなって注目されている。でも、私には菜月にそのことよりも、そのペンネームを教えてあげたいと思うのだ。
そう、私のペンネームは、
『平山菜月』
水島菜月と平山瑞希はこれでずっと一緒にいることができるようになる。
私は微笑み、本の中の彼女へと言葉を投げかける。
――私は、あなたとずっと一緒にいるよ。
了
作品名:Best Friend 作家名:御手紙 葉