Best Friend
菜月が一番好きだという作品を私に譲ってくれたのだった。私も何度も読み返して、思い入れのある作品と言ってもいい。
私はそのページを捲って執筆のことをすっかり忘れて読み耽ってしまった。その心を捕えて離さないような美しい文章やストーリー、そういうものに触れて私もこんなものが書きたいな、とふと思った。
気づいた時には、鉛筆を再び握っていた。
原稿用紙にそっと筆を滑らせて書き始めるが、そこからは本当に何故か書くことが楽しくて仕方なかった。
どうしてこんなにも溢れるように文章が心から零れ出てくるんだろう、と思ってしまう程に、私はその作業にのめりこんでいた。
我に返った時には、もうその作品を一つ、書き終わっていた。
私は原稿用紙をそっと集めて読み返してみたが、果たしてこれが読む価値のあるものなのか疑問だった。でも、とりあえず菜月に見せてみようと思う。
彼女が一体、どんな感想をくれるのか、楽しみだった。
*
菜月は私の原稿を受け取ってから、もう三十分以上も何も言わなかった。私は寄る辺のない心境のまま、時折アイスコーヒーを飲んで彼女からの言葉を待っていた。
菜月は彼女にしては珍しい、全くの無表情で唇を結び、ただ無言で原稿に視線を走らせていた。彼女が用紙を捲る音が、私の心に踏み込んでくる彼女の足音のように聞こえた。
私は何度も口を開きかけて、彼女の真剣な眼差しに言葉を呑みこむということを繰り返していた。
どうだろうか、もしかしたらどんな感想を言ったらいいのか困っているのかな。
そこで菜月が最後まで読み終わったのか、その原稿をテーブルに置いた。ふう、と吐息をつき、私へとすっと真剣な表情を向けてくる。私の心臓がドクンと鳴った。
「瑞希」
「……どうだった?」
菜月は目を閉じ、もう一度深い吐息をついた後、瞼を開いてそっと私の手を握った。
「すごく面白かった。初めて書いたもので、これだけのものが書けるなんて、私には本当に驚きだわ」
「な、何言ってるの。そんなことある訳ないでしょ」
「ううん、嘘じゃない。あなたにはすごい才能があるわ。この作品、賞に出してみたらどうかしら?」
私は菜月の震える声に、返す言葉もなく口を開いて硬直していたが、やがてふっと苦笑した。
「そんなの落ちるに決まってるでしょう。冗談で言ってるんでしょ?」
「本気で言ってるの。これ、すごいわよ。新たな道が拓けるかもしれないわ。ねえ、やってみない?」
私の手を握る彼女の力に、その言葉は嘘でも冗談でもないことがわかった。私は目を見開き、彼女を凝視していたが、視線をふと伏せた。
編集関連の仕事に就いている菜月が言うのだから、それは本当なのだろう。私にももっと別の、明るい道が拓けてくるのかもしれない。それは案外、すぐ側にあったものなのかもしれなかった。
そう、踏み出してみればいい。菜月の言葉を信じて、一歩前に。
私はうなずき、そして口を開いた。
「やっぱりやめとくわ」
でも、口から零れ出たのは、やはりそんなあきらめの言葉だった。
「本当に絶望的な確率で、私が受賞できたとしても、私にはその先やっていく自信なんてないから。きっと私にはこういう生活が似合ってるのよ」
違う。私はあんなにも小説を書くのを楽しんでいたじゃない。今すぐにとは言わなくても、それを目指す覚悟はいつかふっと心に舞い降りるかもしれない。
でも、私はその勇気が出なかった。
「そう。残念ね」
菜月はその原稿を握り締め、本当に泣きそうなほど寂しげな表情を見せた。でも、数秒後にはいつものような笑顔を浮かべ、まあ、いいわ、と私の掌をぽんぽんと叩いた。
「まだまだ書いてみればいいじゃない。賞がどうのこうのなんて関係ないわね、確かに」
菜月はそう言ってウェイトレスにショートケーキを二つ頼み、奢るから、と話した。私は彼女にうなずきながら、何か自分が間違った選択をしてしまったのではないか、とそんな予感がふつふつと心を突き刺すような気がした。
*
その一週間と二日後、菜月は事故に遭った。
*
菜月。心の中で呼んでみても、口に出して名前を彼女に囁きかけても、彼女が語ることはなかった。
彼女の葬儀が営まれ、冷たくなったその皮膚に触れた時、私は涙が出てくるのかと思った。当然出てくるはずだろう。
でも、出なかったのだ。
私は本当に卑劣で、捻くれていて、どうしようもない冷たい人間なんだ。深くそう思った。
棺桶の中の彼女はそれでも美しく、私は周囲で泣き出す彼女の友人達を見ながら、涙は出なくても、心の中に何か大きな空洞が際限もなく大きくなっていくのがわかった。
私は菜月というその名前を心の中にも、彼女が好きだった本の中にも、あの喫茶店にも見出せなくなってしまうのだろうか。
それは残酷だ。でも、一番残酷なのは、彼女を喪って呆然としている自分自身だった。
*
平山瑞希を慕ってくれる友人など、もうこの世にいなかった。でも、菜月が好きだったその喫茶店はまだそこに残っていた。
私は彼女といつも会っていた土曜日の午後にその喫茶店を訪れ、扉を開いた。すると、いつものジャズピアノが私を包み込み、そっと心を優しく撫でてくれた。唇を結んでその懐かしい空気に俯きながら、私はオーナーの挨拶に頭を下げて奥の席へと向かった。
いつものようにアイスコーヒーを頼んで本を開いても、その大切な“何か”はやって来なかった。私はページを捲って視線を走らせ、その何かが訪れるのをずっと待った。でも、来なかった。来るはずがなかった。彼女がいないのだから。
私は本を閉じ、額に手を当ててきつくきつく唇を噛み締めた。菜月、と呼んでも、もうあの微笑みは見ることができないのだ。
菜月がいないこの喫茶店に、私の心の置き場所はないのかもしれなかった。
ぐっと拳を握り、立ち上がろうとした時、ふと鞄の隙間からそのハードカバーの背表紙が見えた。
星の降る街。
私は彼女の存在がどれだけ私を支えていたかをようやく知った。知るのが遅すぎた。一番言葉を伝えたかった相手はもう、海原の彼方へと旅立ってしまった。
そっとその席に座り直し、そのハードカバーを手に取って開いた。すると、人気作家の巧みな文章がページを泳ぎ出し、もう一度海の向こうから菜月を呼び寄せた。
彼女がその本の中にいた。湖で出会った少女二人が星の降る街を探して旅を始める冒頭、奈月という女性が出てくる。彼女は自分の進む道を迷っている二人に助言を与えた。もっと彼女達が幸せになるように、自分のありったけの優しさと思いやりと、少しの熱情を分けてあげるのだ。
それが私にくれた言葉のような気がして、私は涙の味を口の中に感じていた。そっと瞼から雫が伝い落ち、それが唇の隙間から中に入った。
――あなたにはすごい才能があるわ。この作品、賞に出してみたらどうかしら?
――新たな道が拓けるかもしれないわ。ねえ、やってみない?
菜月が私に残してくれた言葉を、私は大切に抱いて歩いていくべきなのだ。
私は星の降る街のハードカバーの本を彼女から受け取った時のことを思い出す。
作品名:Best Friend 作家名:御手紙 葉