ポストマンの歌が聴こえる
POST:1 『スーパーカーの約束』
その人は、突然俺の前に現れた。油のきれた真っ赤な自転車に乗って、上手すぎる鼻歌を歌いながら。
*
日曜日の朝、遅い朝食を終えた俺は最近やっとの想いで購入した愛車の洗車中だ。発注してから納車の日を迎えるまで、こんなに日にちが過ぎるのを遅いと感じたことはなかった。
自慢じゃないが頭金ゼロ。ただでさえ安い給料の三分の一を毎月持っていかれる、フルローンってやつだ。
でも、お金なんて問題じゃない。もう親父からの借り物じゃない自分だけの車をピカピカに磨き上げる、最高の時間。
チリ一つ見逃さないように、じっくりと繊細にワックスを拭き取っていく。この日のためにホームセンターで買っておいた脚立は安定感抜群だ。
さてさて仕上げの初心者マークは何処に貼ろうか? 少し斜めに貼り付けてこだわり感を出すのもいいかな。もうちょっと右……もうちょと上。うんOK、文字通り風に舞う若葉のようだ、悪くないかも。
このピッカピカの新車の助手席に初めて乗るのは、どんな素敵な女性だろうか……なーんて。
それにしても今日は、まぶしい程のこの天気。どこまでも突き抜ける高い空、鼻の頭にちょっかいを出しては逃げていく初夏の風。遠く向こうを見渡せば海に続く潮の香りのする大きな川。まるで今ジオラマの中にいるみたいだ。
峠道のてっぺんからは、手を伸ばせば掴んで食べられそうな綿アメそっくりの入道雲が覗いている。そして道から生えるように不意に現れた、誰かの頭……頭!?
ふらふらと揺れる真っ赤な自転車を立ち漕ぎする……あの制服は……そう郵便屋さんだ。このキツイ登り坂を降りずに漕いできたなんて冗談だろ? 考えられない。
やっと下り坂になって少し嬉しそうだ。いやいや前言撤回、めちゃめちゃ喜んでる。大きく両足を広げ全身で風を受けながら、飛んでいってしまいそうな帽子を片手で押さえて笑っている。
(キーキキーーー)
あぁーあ凄いブレーキ音。商売道具の愛車ならもっとメンテしてやらないと、俺みたいにね。そして……ん? 鼻歌? にしては何て綺麗なファルセット。
凝視するホース片手の俺の前を、上手すぎるハミングを響かせながら猛スピードで通り過ぎ……ない。まさかのフルブレーキング!
郵便屋さんの真っ赤な自転車は、けたたましい音をたてながら呆気にとられる俺の前で完全停止した。
「あ……の」
先に話しかけようとしたのは俺。でも、言葉に詰まってしまった。まじまじと眼の前の郵便屋さんの姿を見ていて気づいたことが二つばかり。
この制服は今現役の制服ではない。少しばかりレトロな感じがする、何となくだけれど……。そしてあと一つ。
郵便屋さんの顔が濃い。
一口に濃い顔と言っても様々あるが、眼の前にいるこの人は、そもそもナニ人なのか分からない。
彫りが深く鼻筋の通った顔立ちはまるで彫刻のよう。少し茶色がかった眼差しは優しいけれど何処か悲しげにも見える。ほんの少しだけオシャレに蓄えられた顎ヒゲは、モミアゲまで繋がっていた。
パーマっけのある黒髪がボサボサなのは坂道を下ってきたせいかな。とどのつまり、この人はナニ人にも見えてナニ人にも見えない。
日本語で話しかけて通じるのだろうか? 躊躇している空気を察してくれたのか、今度は向こうから話しかけてきた……思いがけず綺麗な日本語で。
「あ、やっぱりこの顔ですよね?」
「え、いや、あの」
「いいんですいいんです、慣れてますから。よく外国人に間違われて困ってるんです。間違われるだけならいいんですけどね、この間なんか同郷だと思ってインド人の方の集会に呼ばれちゃって……」
「あ、はあ……」
「あぁーすいません! 関係ない話をゴチャゴチャと。島井……大地さんですよね?」
「はい、そうっすけどあなたは……」
「失礼しました。私はケン・ポストマンと申します。二十年後のあなたから預かったお手紙をお届けに参りました」
「えーー!」
「ハハ……」
「日本人にしては随分振り切れた名前っすねー」
「えー? はい、まぁーこれはビジネスネームみたいなもんでして。ていうかそっちですかぁ? 私二十年後から来たって言ったんですけど」
「はぁ、二十年後……ですか」
「はい、こちらがそのお手紙になります。どうぞお受け取り下さい」
このよく分からない郵便屋さんは一通の封筒を俺の手に握らせた。切手も消印もないエアメール風の青色の封筒。
「あーどうもすんません、ご苦労様でした。それじゃあ俺はこれで……」
「わーちょっとちょっと!」
「まだ何か用っすか?」
「島井さん、完全に疑っちゃってますね」
「いや、そんなことないっすよ。二十年後の俺からっすよねー。何だろう楽しみだなー」
俺の言葉は完全に棒だ。
「まぁ、信じる信じないは島井さん次第だから私的にはいいんですけど。一応仕事なので説明だけさせて下さいね」
「はぁー分かりました」
「あーおっほん、じゃあいきますよ。この手紙は、『深い後悔を抱えた人』にだけ、一生に一度届く手紙です」
「あのー、俺そんな後悔、別にないっすけど」
「あぁー、後悔を抱えてらっしゃるのは二十年後のあなたの方です。ある日……」
郵便屋さんの説明は、だいたいこんな感じだ。
ある日、『深い後悔を抱えた人』の郵便受けに見たこともないレターセットが届く。中を開けると、とても綺麗な空色の便箋と封筒が入っている。
そして、ただし書きには短くこう書いてあるらしい。
『あなたの抱える後悔をこの手紙に託して、届けたい人の名前だけを宛名に書いて下さい。遠い外国、過去、未来どこの誰へでも私が必ずお届けします。 ポストマン』
バカバカしいと書かずにゴミ箱に捨てるのも自由。信用しないまま気持ちをぶつけるように紙に走らせるのも自由。
でも想いを便箋に乗せて、封筒の箋をしっかり閉じ終えた人の元にだけ、ケンは本当にやってくる。
配達する空色の手紙を受け取るために。募らせたその想いを誰かへと繋げる為に。
「じゃあ、ちゃんと届けましたからね。その手紙を読むにしろ読まないにしろ、こっから先はあなたの自由です。では、私はこれで!」
「あ、郵便屋さんちょっと待って!」
「えー何ですかあ? ここいい所なんですから格好よく立ち去らせてくださいよー、まいったなぁ。それに、ケンでいいですよケンで」
「じゃあケン、はいこれ!」
「ん? あの……これは?」
「とりあえず、倉庫にあったチェーンオイル。でも、ブレーキのゴムはもう交換した方がいいっすよ」
「わぁーホントにいいんですかぁー! ありがとうございます、感激だなぁ。mmmm~♪」
フフッ、また歌ってる。でも、何て心地いい歌声なんだろう……。
「じゃあ、今度は本当にサヨナラです。ありがとうございましたー!」
「あのー! 最後にもう一つだけー! 二十年後の俺ってハゲちゃってなかったっすかー!」
「プッ、ハハハ! なんやそれ。大丈夫ー! ふっさふさでしたよー! サヨナラー……mmmm~♪」
作品名:ポストマンの歌が聴こえる 作家名:daima