ヒトサシユビの森 2.コユビ
かざねは雪乃の病室のソファで目を覚ました。雪乃が再び眠りについてから3日目の朝だった。
その朝も雪乃はベッドに横たわったまま目覚めない。
ただ小さなデジタル信号だけが雪乃の鼓動を伝えていた。
室内にいぶきの姿がなかった。病院から借りている子ども用ベッドもカラだ。
「もう、あの子はほんと、じっとしてないんだから」
かざねは備え付けの洗面台で顔を洗うべく、鏡の前に立った。
一瞬背後を横切った何かが鏡に映ったように見えた。
素早く振り向いたかざねだったが、そこには雪乃が穏やかな寝息をたてて眠っているベッドがあるだけだった。
かざねはアイブローで眉を整えると、いぶきを探すため廊下に出た。
待合室のほうに人が集まっているようだった。診療が始まる前の待合室は外来客の代わりに、入院患者が朝刊を読んだり、NHKニュースをテレビで見ながら歓談している光景が常だった。
薄型テレビは、大人の目の高さくらいの壁面に掛けられていて、いつもはNHKアナウンサーがニュースを読み上げている時間帯だった。
しかしその朝は違った。髑髏怪獣レッドキングとウルトラマンが派手に死闘を繰り広げていた。
床に目をやると、いぶきが膝の上にテレビのリモコンを両手で抱えて三角座りしていた。
入院患者の誰かが不平を漏らしたのだろう。
事情を聞きつけた事務職員が、いぶきにリモコンを返すよう説得しているところに、かざねが出くわした。
「いいじゃないか、テレビくらい見せてやれよ」
と寛容さを示す老紳士もいたが、言葉とは裏腹な感情を嗅ぎ取れないかざねではなかった。
かざねは嫌がるいぶきから力づくでリモコンを取り上げた。
「ここはおうちじゃないの、いぶき」
かざねはリモコンを事務員に返して、待合室にいた患者全員に頭を下げた。
「すみません。お好きなチャンネルに替えてください。NHKにしてあげてください」
事務員は不平を言いにきた老婦人たちを一瞥し、チャンネルをNHKに替えた。画面にNHKのアナウンサーが大映しになり、落ち着いた声でローカルニュースを伝えた。
「石束町に本日開業するいしづか道の駅は、県内6番目となる地元の農産物を販売する・・・」
事務員はホッとした表情を浮かべた。
だが、事務員の足もとに、半べそをかいたいぶきがかざねの手を搔い潜って突進してきた。
いぶきが事務員の腰にしがみつくと、テレビ画面がNHKからまた荒れ狂うレッドキングに替わった。
劣勢に立ったウルトラマンの胸のカラータイマーが点滅し始めた。
「事務員さん、気を使わなくていいですから・・・」
「いいえ、そういうのではなくて・・・」
事務員は自分が誤ってチャンネルボタンに触れてしまったのだろうと、また画面をNHKに戻した。
いぶきは事務員の制服の裾を執拗に引っ張った。
届かないとわかると、今度は反動をつけて飛びあがってリモコンに手を伸ばす。
かざねはそんないぶきを事務員から引きはがすのに躍起だ。
そのとき事務員は見た。
リモコンのチャンネルボタンがひとりでにゆっくり押し下がっていくのを。
そしてテレビが再び特撮怪獣番組に切り替わった。
シーンは進んで攻守逆転。ウルトラマンは弱ってきたレッドキングから距離をとり、片膝をついてまさにフィニッシュに入るポーズだった。
「いい加減にしなさい、いぶき!」
待合室に鈍い破裂音が響いた。
沈黙が時間を支配する中、皆の視線はかざねの左手といぶきの右頬に注がれた。
いぶきの潤んだ目から涙がこぼれた。
涙はとめどなく溢れだし、いぶきは大声をあげて泣き叫んだ。
年配の看護師がいぶきを心配してしばらく付き添った。
廊下の長椅子に並んで座り、絵本を読み聞かせたり、いぶきの小さな肩に手を回して身体を寄せ合ったりして、いぶきが落ち着きを取り戻すのを待った。
かざねは雪乃の病室にいた。
雪乃が眠るベッドの脇に座り、雪乃のぬくもりのある手を握りしめていた。
「母さん、あたし子どもを上手く育てられない。どうしたらいいの、母さん」
かざねは眠りつづける雪乃に語りかけた。するとかざねの手の中で、雪乃の指がほんの少し動いたような気がした。
「母さん!」
かざねは雪乃の表情に注目した。
しかし雪乃は目を閉じたままで、穏やかな表情はピクリとも動かなかった。
雪乃の手の指も反応しない。デジタル機器の数値にも変化はなかった。
かざねは肩を落とし、流れる涙をハンカチで拭った。
廊下をパタパタと走る音が近づき、雪乃の病室の引き戸が開かれた。いぶきに付き添っていた年配の看護師だった。
「溝端さん・・・、いぶきちゃんが・・・」
つづく
作品名:ヒトサシユビの森 2.コユビ 作家名:JAY-TA