貧者のシナリオ
「愛は惜しみなくすべてを奪っていく。分かっているよ、彼女と寝ることが悪いことだって。だけど、僕たちは合意しているし、お互いに愛し合っているんだ。彼女は貧しさから抜け出した。上等の洋服やアクセサリ、教育、住居、そして未来。僕は彼女にすべてを与えていった」
僕はポケットからマールボロを取り出して、一本吸った。缶コーヒーのプルタブを開け、少しだけ飲み、ベンチの上に置いた。風が強くなっていた。うねりを上げて、吹きすぎていく。
「分かっている」ガイアは小さな声で言った。「心美とは別れるよ。それから、個人的な売春組織は解散する。今のところ、警察の捜査は届いていない。僕は間違っていた、すべてをやり直す。だから、また付いてきてくれないか・・・・・・」
僕は彼の目を見た。彼はうっすらと涙を流していた。それは目の縁に溜まり、やがて大粒の涙になっていった。僕は動揺した。彼が涙を流すところを初めて目の当たりにしたからだ。僕は黙っていた。何かが僕の心に引っかかった。それが、まだ何なのか分からなかった。僕は心美の顔を思い浮かべた。それは自然と、浮かび上がってきた映像だった。彼女の顔は、美しく、綺麗だった。肌はつるりとしていて、白かった。僕だって、同じ年齢だったのなら、彼女に恋をしていたのかもしれないな。ガイアだって、恋をしたくてしたのではなかったのかもしれなかった。それは、否応なくやってくるのだ。台風や竜巻のように、すべてをなぎ倒し、吸い上げ、吐き出していく。
僕はガイアを見つめた。彼は心身が参っているように、見えた。僕は缶コーヒーを飲み干し、立ち上がった。
「仕事は辞める、君とはもう会うことはないだろうね」
彼は僕を見上げていた。わなわなと震えていて、拳を握りしめていた。
「そうか・・・・・・」と彼は弱々しい声で言った。
僕は仕事を辞めたことを恵に告げた。そして、ガイアと今後付き合っていかないことについても。彼女はそのことを喜んでいたし、急に機嫌が良くなった。
「ガイアが持っているどこか毒々しさに気がついたのね」と彼女は言った。
「彼は僕が思っていた人物と違っていた。救世主になろうとしていて、なり損ねた。滑稽だったよ」
「ところで、あなた次の仕事は何をするの?」
「そうだね・・・・・・。しばらくは休養するよ。それから、考える」
「どんな道へ行っても、あなたを信じているわ」
「ありがとう」
「ところで、子供を作りたいの・・・・・・。私ももうすぐ三十一歳だし、少しでも若い方が良いのよね」
「良いよ、作ろうね」
「名前は、もう決まっているの。男の子であっても、女の子であっても」
「それは良かった」
「あなたとの子供だから、きっと幸福になるわ、そうに決まっている」
「子供は生まれるところを選べない、僕たちのところに生まれてくる子供は幸運だと思うね」
「不幸な子供たちもいる」
ガイアは、その不幸な子供たちを救おうとしていた。あるいは、今でも救おうとしている。しかし、本当に救うということはいったいどういったことなのだろうか。それはとても難しい問題だし、簡単にはいかない、と僕は思う。
夏になって、ガイアの会社は新聞を賑わしていた。すべての経営権を譲渡すると発表があったからだ。どうしてガイアが、会社を譲渡しようと思ったのか、僕には分からなかった。『貧者のシナリオ』は世界的なヒットとなっていったし、新作のサウンドノベルの売れ行きも悪くはなかった。
彼の夢はいったいどこへ向かっていくのだろうか・・・・・・。僕は『貧者のシナリオ』のアカウントを削除し、登録を解除した。その世界は、もう僕には必要がなく、関係のないものとなっていた。
秋には、恵は妊娠をした。二ヶ月だった。僕はその頃には、新しい仕事を見つけた。パソコンに詳しかったので、インフラ系のシステムエンジニアになった。夜勤はなく、すべて日勤だったし、土日が休みだったので、僕には都合が良かった。
新しい生活がスタートした。僕の生活には、ガイアはもういなかった。冬の日曜日に、『クイーン』から電話があった。ガイアは入院しているということだった。何故かは、よく分からない。心労かもしれないし、肉体的な疲労かもしれなかった。彼女は、既に会社を退社し、新しいデザイン事務所を作っていた。川口さんがフォトショップとかイラストレイターを使うことができたのなら、一緒にやっていきたったのだけどな、と彼女は笑っていた。
「ガイアとはまだ付き合っているの?」
「会社を譲渡してから、顔を合わせてないわ・・・・・・」
「そうか」
「あの人は、貧しさからの救済を行うと言っていた。でも、結局、何が救われたのだろうって今では思うのよね」
「彼は貧しい人々のために、テーマパークを作りたいと言っていた」
彼女は電話口の向こうで笑っていた。僕も笑った。
「彼は、そうね、ちょっと病気なのよ」
「ところで、君は中年の派遣社員の彼氏とまだ付き合っているのかな?」
「もうとっくに別れたわよ。私は、『ミュージシャン』こと御厨君と付き合っている。若いって素晴らしいわ、夢があっても、薄汚くも悲壮感も漂っていない。もっとも、彼には才能があるけどね」
「御厨君、懐かしいな」
「今度、三人で集まって飲みに行きましょうよ」
「良いね」と僕は笑った。
ガイアからメールがあったのは、十一月の初旬だった。久しぶりだった。僕は懐かしい気分になった。内容は、「新しい会社を立ち上げるので、参加して欲しい」というものだった。僕はため息をついた。彼にうんざりしていた。次はどんな夢を掲げ、どういった人々を巻き込み、どこへ向かっていくのだろう? と思った。
僕はメールを最後まで読み、削除した。そして、キッチンへ行って豆を挽き、ホットコーヒーを作った。ホットコーヒーを飲み、煙草を吸った。
この世界はどこへ向かっていくのだろうか? ガイアが成し遂げたことや、これから成し遂げようとしていることは、果たして世界を変えることに繋がっていくのだろうか。僕には分からなかった。僕は『貧者のシナリオ』を思い出していた。あのゲームには、何かがあった。こうこうと輝いて、失われないひかりが。
新しい職場の、新しい生活は、僕に良く馴染んでいた。子供は春の終わりに生まれて、女の子だった。恵は、彼女の名前を香織と名付けた。川口香織、とても良いネーミングだと思った。
世の中は、富裕層と貧困層の差が激しくなっている。僕の周りで変わったことと言えば、僕自身だった。時々、孤児院を訪問している。そこで、子供たちと話し合う。ホームレスの連中と一緒に飯を食うことだってある。そして、コンビニエンスストアの募金にお金を入れるようになった。
僕は家族のことを想った。それは、僕の家族なのだ。まずは彼女たちを守らないといけない、守るのは僕を置いてほかにはいなかった。恵と、幼い香織と新宿御苑を歩き、ベンチに座った。僕はガイアのことを想った。彼は、今頃何をしているのだろうか。あるいは、本当に世界を救おうとしているのかもしれないな。
僕は息をついて、空を見上げた。太陽は、雲の隙間から虹色のひかりを放っている。美しい光景だった。
作品名:貧者のシナリオ 作家名:Murakami.Lia