Memories of You
しかし、会場に『メモリーズ・オブ・ユー』の美しく、優しいメロディが流れると、彼女は俺の肩にそっと頭を預けて来てくれた。
その瞬間、俺ははっきりと『結婚』の二文字を意識した。
それ以降、俺はデートの度に結婚をほのめかすようになったのだが、彼女の反応はあまり芳しいものではなかった。
コンサートにせよ、食事にせよ、公園や遊園地にせよ、俺が誘えば必ずと言ってよいほど応じてくれたし、楽しそうにしていてくれる。
しかし、俺が結婚をほのめかすようなことを言うと、途端に心を閉ざしたかのようになってしまうのだ。
『だって、私の方が八つも年上なのよ、それに結婚もしてたわ、あなたはまだ若いから、私よりふさわしい人がきっと現れるわ……』
それが理由だ。
『そんな事は全然気にならない、俺は純子さんしか考えられないんだ』
俺が何度そう繰り返しても、彼女の態度は水割りの氷のようには溶けてくれなかった。
そして、付き合って丁度一年目、俺は意を決して尋ねた。
「まだ亡くなった旦那さんのことを?」
「……忘れたと言ったら嘘になるわ……でも……」
「でも……俺と会っている時は、俺を、俺だけを見ててくれてる?」
純子さんは小さく、しかし、はっきりと頷いてくれた。
その瞬間、俺はある決心を固めた……。
その年のクリスマス、俺は彼女の前に小さな箱を差し出した。
もちろん指輪だ、左の薬指につけてもらうための……。
たとえ亡くなった旦那さんの事は忘れることが出来なくとも、彼女は俺を愛してくれている。
そう確信した俺は、なけなしのボーナスをはたいて、小粒のダイヤがはまった指輪を買った。
受け取ってもらえるかどうかはわからない、もし受け取ってもらえなければ、海にでも放り投げてきっぱりと諦めるしかない、そんな切羽詰った思いを込めた指輪だ。
その小箱を見た彼女は、はっとしたように俺の顔を見た、そして俺の切羽詰った思いを察してくれたのだろう……黙り込んで深く俯いてしまった。
「意味、わかってもらえるよね?」
「ええ……でもそれは受け取れないわ」
「どうして? 目の前にいる俺より、亡くなった人の方が大事?」
「意地悪なこと言わないで……そんなこと、比べられるはずがないじゃない」
「ごめん……でも、だったら何故?」
「だって……」
「歳のことなら気にしないって、何度も何度も言ってるじゃないか」
「……怖いの……」
「怖いって、何が?」
「康夫さんの時も、私は一生一緒にいられると思ってた……でも、先に逝ってしまったわ、もうあんな思いをするのは嫌なの、それが怖いの……」
すぐには二の句が告げなかった……俺は彼女に夢中なばかりで、彼女と一生一緒に過ごすことばかり考えていた、しかし、彼女は一生を誓った人を失う辛さを知っているのだ……。
「本当に辛かったの、もう死んでしまおうかとも思った……でも、あなたと出会えて救われたわ……感謝の気持ちが愛情に変わって行った……でも、もし、またあんなことが起きたら、もしあなたを失ってしまったらって考えると……」
俺の頭の中はぐちゃぐちゃに混乱していた。
何か言わなくちゃと思うのだが、何も出てこない……でもこのままでは……。
そして、俺の口をついて出た言葉は、自分でも思っても見ないようなことだった。
「あ、そうだよ、男女の平均寿命はそれくらい違わなかったっけ? ほら、生物学的に言っても、きっとそのほうが自然なんだよ、きっと死ぬ時も一緒さ、俺は純子さんを置き去りにして死んだりなんかしないよ」
我ながら間の抜けた言葉だと思った。
でも、それを聞いて彼女はようやく顔を上げてくれた。
「本当に? 私、二度も未亡人になるのは嫌よ、私より先に逝かないって約束してくれる?」
「ああ、絶対に……約束する」
今考えると、何を根拠に『絶対に先に逝かない』なんて約束できたんだか……。
でもその間抜けなプロポーズのおかげで、あの時、俺は小箱を開いて、彼女の薬指に指輪を通すことが出来たんだ。
その瞬間、レストラン中から拍手が沸きあがってびっくりした。
どうやら夢中になりすぎて随分大きな声を出していたらしい……。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「どの機種にする?」
「私、携帯ってあんまり好きじゃないの、だからシンプルなのでいいわ、簡単ケータイ、字も大きくて見やすいし、これでいいわ」
「そうだね、俺も実はあんまり好きじゃないんだ、今時持ってないとも言い難いんで持ってるだけでさ、俺もそれでいいや」
「おそろいね」
「今更おそろいを喜ぶ?」
「あら? 私は嬉しいわよ、あなたは何色?」
「そうだな……鞄の中でも見つけやすそうだから白かな」
「じゃ、私も」
「見分けがつかないんじゃない?」
「ストラップはおそろいじゃないのをつけましょうよ」
夫婦で携帯ショップに来ている、周波数の切り替えだか何かで機種変更しなくてはならなくなったからだ。
そして、もちろん隣にいるのは純子だ。
あれから三十年以上経った。
一人娘も昨年無事に嫁に行って、今はまた二人暮らし。
『絶対に先に逝かない』と言う約束も今のところ守れている。
「あの頃携帯があったら、私達出会えてなかったわね」
純子がふと呟いた。
俺もあの晩のこと、夜中にかかって来たあの電話のことを思い出した、不思議なほどに鮮明に憶えている。
「ああ、確かにそうだね」
純子を見ると、柔らかな笑顔が帰って来た、二人ともブラバンだったことがわかった時の笑顔が蘇る……。
「え? それってどういうことですか?」
俺達の会話を小耳に挟んだのだろう、手続きをしてくれていた若い店員が顔を上げた。
「呼び出し電話って、知ってるかい?」
「いいえ、なんですか? それ」
「人の電話番号を使わせて貰うんだよ、電話がかかってきたら声をかけてもらって電話を借りに行くんだ」
「電話を共有するってことですか?」
「まあ、そんなところだな」
「そんな時代があったんですねぇ」
物心ついた頃から携帯に慣れ親しんでいるであろう店員は妙に感心している。
「でも、携帯がなかったらって、どうして……あ、すみません、立ち入ったことでした」
「いいのよ、ちょっと面白い話だから聞いてくれる?」
「ぜひ」
純子が悪戯っぽく笑いながら言うと、店員は少し身を乗り出した……。
「へぇ、そんなことってあるんですね、必ずしも便利なばかりが良いって訳でもないんですねぇ……」
純子の話を一通り聞いて、店員はちょっと神妙な顔つきになっている。
「はい、これで手続きは終了です、何か他にお手伝いできる事はありませんか?」
おそらくはマニュアルどおりの対応なのだろうが、俺達のなれそめの話を聞いたからだろうか、親身になってくれているように見える。
「そうね、せっかくだからひとつお願いできる?」
「なんなりと」
「着メロなんだけど、プリセットじゃないものに替えていただけるかしら」
「はい、お安い御用です、なんと言う曲になさいますか?」
作品名:Memories of You 作家名:ST