『遥かなる海辺より』第1章:プロローグ
拍手はなかった。魂を抜かれたような表情の者もいれば目頭を押さえ下を向く者もいた。侍女たちの間から嗚咽の声がもれた。セシリアも涙を浮かべつつ、それでもホワイトクリフ卿に深々と頭を下げた。
「百年前のものだというのに、これはまるで私のために書かれた曲とさえ思えます。皆様の支えのおかげで、私はここまでやってこられたのだと……」
車椅子の少女はこぼれた涙を拭い、再び頭を下げた。
「これほどの曲を選んで下さり、なんとお礼を申し上げれば」
「あ、いや……」
ようやく我に返ったとおぼしき若きナイトは、狼狽の面持ちでいい淀んだ。
「……白状すると実のところ、この曲がこんなものだとは予想もしていなかった。恥ずかしながらこの私、楽譜には疎くて」
「では、貴君はどうしてこの曲を娘に贈ろうと?」
「それが、奇縁というしかないのです」
訝るノースグリーン卿に、曰くありげな面持ちでホワイトクリフ卿が応えた。
「申し訳ない話だが、私が書庫で探していたのはご令嬢の祝いの品ではなく、旅路に役立ちそうな事柄を記した文献の類でした。かの中原のヴァルトハール公国やその周辺の地名を含む文書を、昨日の朝からひたすら検分していたのです。
そんなふうに丸一日過ごした末、曽祖父にあてた一通の書簡を見つけました。添え書きに楽譜も送ると書いてあったので、楽譜棚から探し出したのがこれなのです。送り主の名はルヴァーン。曽祖父はこの人物のパトロンだったようです」
「聞いたことがありますわ。スノーフィールド出身の音楽家で、大陸を旅して各地の音楽を採譜していたとか。でも、妙な話ですわね……」
「なにが妙なんだ? メアリ」
訊ねるエリックに、メアリはこめかみに手を当てて答えた。
「そのルヴァーンなら、たしか魔術を学んだ経歴はなかったはずですけれど」
「ということは、最初からこの曲自体に魔法がかかっているのでありますか?」
「よしてくれ!」
アンソニーの言葉にリチャードが後じさった。
「その曲の素性はわからないのですか?」
「もちろんわかっている。だからここへお持ちしたのだ」
アーサーの問いかけに答えながら、ホワイトクリフ卿は一束の羊皮紙を取り出した。
「この手記によれば、これは今から百年前、大陸南端の海辺の村ルードで採譜されたものだ。それも人間の音楽ではなく、人魚の歌を書き留めたものなのだ」
「ルードの村の人魚? まさか、ホワイトクリフさんっ」
ロビン少年の叫びが響き渡った。それまで口を出さずに聞いているだけだった薬師の少年が、驚愕に目を見開いて立ち尽くしていた。そんなロビンに、旅路を共にした仲の青年騎士は重々しくうなづいた。
「そう、三百年前にルードの村に棲み付いたあの人魚。三年前にヴァルトハール公国に連れ去られて殺され、かの謀略国家に破滅をもたらしたあの人魚だ」
一瞬、いいようのない沈黙があたりを支配した。人々の驚愕はそれほどまでに大きかった。
中原の公国ヴァルトハール。若き簒奪者グロスベルクは配下を数多の国々に送り込み、権力基盤をゆるがす数々の謀略を仕組んでいた。その計略の標的となりセシリアは難病に見せかけるべく毒を盛られ、娘を救おうと必死のノースグリーン卿は国外追放に値する罪に手を染めるよう仕向けられた。そんな卿を追う立場に立たされたのが、未熟さに付け込まれたホワイトクリフ卿だったのだ。
あと少しでノースグリーン卿は失意のうちに追放され、スノーフィールドは堅き盾を失うはずだった。しかしヴァルトハールの滅亡が伝えられたことで間者たちは投降し、セシリアはからくも一命を取りとめた。人魚に秘められた強大な力に触れたがために自滅した謀略国家ヴァルトハール。その滅びの元となった人魚の遺した歌が、ここでセシリアにより奏せられた因果の不思議に、一同は等しく言葉を失くしていた。
「……それで、その手記にはどんなことが?」
ようやく口を開いたノースグリーン卿に、ホワイトクリフ卿は申し訳なさそうに両手を広げた。
「始めしか。読み通す暇がなかったので」
「この場にいるのはゆかりある者ばかり。読んではいただけないだろうか?」
「遅くなるとご迷惑では?」
「お願いする」
他の人々もそれぞれ期待の面持ちで聞く体勢に入るのを見て、青年騎士はうなづいた。
「では読ませていただこう。だがそのままでは言い回しも古くて聞きづらいだろうから、大意を取らせていただくことでよろしいか」
うなづく一同の顔を見回すと、ホワイトクリフ卿は机に広げた羊皮紙の文字を指先で追いながら古えの手記を読み上げ始めた。青年騎士のよく通る声が静まり返った大広間を流れ始めた。
第2章 ルヴァーンの手紙 →
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作品名:『遥かなる海辺より』第1章:プロローグ 作家名:ふしじろ もひと