『遥かなる海辺より』第1章:プロローグ
竪琴が前奏を奏でた。かき鳴らされる弦から立ち上る音の粒が玲瓏ときらめき、さざめいた。水面に散乱する月の光さながらの竪琴の音が余韻を残して静まったとき、人々はまるで夜の海辺に立ち尽くしているような、そんな心地に誘われていた。
遠い木霊のように遥かな響きが、広間を包んだ静寂から浮かび上がった。一本の笛が命を吹き込んだその一つの旋律は、優美でしなやかな動きで虚空に弧を描きつつ、次第に音量を増しながら装飾を加えていった。一本の笛の旋律でしかないはずのそれは、だが吹き手の非凡な技を得て、新たな旋律が寄り添うイメージを聴く者に伝えた。旋律に施された魔法の効果だった。虚空に弧を描く相似形の二本の旋律線が醸し出す満ち足りた調和の調べに、一同は陶然と聴き入っていた。
すると響きに影が差し、二つの旋律が苦しげによじれた。音階を滑り落ちる中で一つが姿を消し、一つだけが残された。茫漠とした空間の中に取り残された一本の旋律のその弱々しい蠢きは、突然の破調に呆然としていた聴き手の心にも暗澹たる翳りを投げかけた。再び旋律が弧を描き始めたが、ただ一本の旋律線によるその動きは、二つの旋律の親密な舞を耳に残す聴き手の欠乏感をむしろ煽り、虚空の広さを異様なまでに実感させた。くり返しと共に旋律は微妙に転調を重ねたが、そのたびに響きは憂愁の色を深め、やがて挽歌と化した。それは単に失われたものを愛惜するに止まらず、自らも含めた万物の滅びの予兆さえ帯びた絶望的な虚無の響きにまで至った。
やがて旋律が再び転調を重ねながら、音階をゆっくり上り始めた。先ほどの暗転とは逆に時間をかけた、這い上がるような動きだった。それとともに先ほどよりさらに細やかな装飾が加わり、再びかき鳴らされた竪琴の音と相まって音楽に新たな様相をもたらした。二つの同じ旋律による全き調和ではなく、息の長い元の旋律を、新たな息の短い音の動きが取り巻くような印象のものに転じていた。
それらの短い音の動きは空白を完全に埋めるには至らず、失われた雰囲気を回復することはできなかった。虚無の影も薄らいだものの、脅かすようにつきまとっていた。にもかかわらず、元の旋律はそれらの音の動きの中、再び元の形で舞い始めた。ときに調和を欠き、ときに支えとなる音を失う瞬間にみまわれつつも、自立的な動きを示し続けた。最初より不完全で不安定な、綱渡りのようでさえあるその様相は、それゆえ聴く者すべてに不思議な感銘をもたらさずにおかなかった。
それはなにかひどく得難い、ありえない形でからくも保たれたかりそめの調和であり、旋律自体の上昇の動きと蠢く短い音たちとの出会いのどちらが欠けても成立しえないものだと、その場の誰もが悟っていた。そしてそのことが絶望を乗り越えようとするけなげな意思と、何らかの出会いに由来する奇跡とさえ呼ぶべきものを避け難く連想させた。誰もがそれを心からいとおしまずにいられなかった。
ついに人々の思いに呼応するかのように、虚無の影が背後に退き、新たな響きが浮かび上がり曲を締めくくるに至った。それは曲の推移を見つめてきた一同にとって、感謝に満ちた慰藉の響きと受け止められたのだった。
作品名:『遥かなる海辺より』第1章:プロローグ 作家名:ふしじろ もひと