小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
てっしゅう
てっしゅう
novelistID. 29231
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

「歴女先生教えて~」 第三十話

INDEX|1ページ/2ページ|

次のページ
 
「そうよ、高木くんはさすがね。詳しくは教科書を読んでくれれば解るけど、簡単に言うとね、88代天皇の後嵯峨(ごさが)という人には二人の息子、兄の久仁(ひさひと)、それと弟の恒仁(つねひと)が居たの。後嵯峨天皇は弟の恒仁を溺愛していたので、いったん兄の久仁に皇位を譲って後深草(ごふかくさ)天皇にするんだけど、十三年後に弟の恒仁に無理やり譲らせてしまったの。それが90代の亀山(かめやま)天皇。亀山天皇の後は子供が皇位を継承するんだけど、これに怒ったのが先代の後深草上皇だったの(息子や弟に譲位すると自分は上皇となる)
後深草は自分の子供が当然皇位を継承するはずだと考えていたから、納得がゆかなかったのね。父の後嵯峨(この時点では後嵯峨法皇となっていた)が亡くなると、押さえつけられていた気持ちが外れて出家すると言い出したの。時の幕府執権北条時宗は同情から天皇家の後続争いの調停に乗り出したの」

「先生!その調停案が両統迭立(りょうとうてつりつ)だったのですね」

「うん、そう。一人の天皇在位を十年と決めて、久仁側(後深草天皇)と恒仁側(亀山天皇)が交互に皇位に就くという決定をしたの。後深草から始まる系統を持明院統(じみょういんとう)、亀山から始まる系統を大覚寺統(だいかくじとう)と呼ばれる。後醍醐天皇が第96代天皇に就いたときに問題が起こったの。彼は約束通りに皇位を次の持明院統に譲ることを拒否したの。もちろん、執権の北条氏は自分たちが仲直りのために仲介した両統迭立を守るように後醍醐に注進した。本来なら後醍醐より先に皇位に就く資格のあった後二条天皇の皇子、邦良親王(くによししんのう)が96代目に当たるんだけど、まだ幼いということで代りに先に即位したのが後醍醐だったのよ。つまり後二条天皇は弟に自分の子供が成長するまで、頼むという意味で皇位を譲ったっていう訳。話し解る?」

「わかりますよ、先生。邦良親王が成長して次に皇位を譲れと言われた後醍醐天皇は拒否したのですよね。なので、邦良親王は幕府に働きかけて、退位させようとしたのです。教科書には次のように書いてあります」

*両統迭立を支持する幕府に不満をいだいていた天皇はこの情勢を見て討幕の計画を進めたが、1324年(正中元年=しょうちゅうがんねん)に幕府側にもれて失敗した(正中の変)。さらに1331年(元弘元年=げんこうがんねん)にも挙兵をくわだてて失敗したために(元弘の変)、持明院統の光厳(こうごん)天皇が幕府に推されて即位し、後醍醐天皇は翌年隠岐(隠岐の島)に流された。
しかし、後醍醐天皇の皇子護良(もりよし)親王や楠木正成らは、悪党などの反幕府勢力を結集して蜂起し、幕府軍と粘り強く戦った。やがて天皇が隠岐を脱出すると、天皇の呼びかけに応じて討幕に立ち上がるものが次第に増え、幕府軍の指揮官として畿内に派遣された有力御家人足利高氏(後に尊氏)も幕府にそむいて六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め落とした。関東で挙兵した新田義貞もまもなく鎌倉を攻めて得宗の北条高時以下を滅ぼし、1333年(弘元3年)、鎌倉幕府は滅亡した。(詳細日本史 改訂版 山川出版社)