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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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影さえ消えたら 4.引金

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 そう言って彼は口の先を尖らせる。この頃すでに父の身体は言うことを聞かなくなっていて、話している最中に意識が切れたように眠ることが多くなっていた。全ては病気のせいだと思っていたが、薬の副作用もあったということを、ずいぶん後になってから知った。

「宿題持ってきなよ。解けないところ、みてやるから」

 アイスの棒を台所のゴミ箱に捨ててそう言うと、彼は目を丸くした。その大きな瞳の中に疑いの目はなくて、素直にプリントの束をさし出してくる。

「ああ、概数とか、わり算の文章問題とかか……。計算は一応できてるみたいだけど」
「お父ちゃんには遅すぎるて言われた」

 ページをめくりながら、彼はそうつぶやく。

「計算はやっただけ早くなるから、夏休み中にドリルで繰り返し練習するといいよ。じゃあ……概数の問題からいこうか」
「こんなん、いっこも意味わからん」
「わからないって思いこんでると、脳が拒絶するんだ。必ずできるようになるって俺が保証するよ」

 そう言って隼人が胸を叩くと、彼はまた目を細めてきた。

「……なんでそんな自信満々なんや」
「そりゃまあ……俺ができるようになったから」
「大人なんやからできて当然やろ」

 彼はふてくされた顔で鉛筆を握ったが、隼人はおかまいなしに説明を始めた。なんだかんだと文句を言って授業を先延ばしにしようとする小学生の相手は慣れている。隼人が淡々とした口調で説明を始めると、ぐずっていた彼も少しずつ隼人のペースに乗っていった。

 数ページを解き終わる頃には、隼人にむけられる眼差しがすっかり変わっていた。

「すんごいわかりやすかった。学校の先生みたいや」
「まあ一応、塾の先生だからね」

 真夕にも同じことを言われたなと思いながら笑うと、小さい隼人は息を吐いて言った。

「俺、塾に行ったほうがええんかな」

 ひとり言のような言葉の中に、大きな意味が含まれていることに隼人は気づいた。胸の奥の方に鈍い痛みを感じる。けれど素知らぬふりをして聞き返す。

「どうして?」
「……東京のおじさんが、むこうで進学せえへんかって言うてくれてる。それには学校の勉強では足りひん、塾に行かなあかんって。でもうちにそんなお金ないしって言うたら、おじさんが出してくれるて言うんや。そんなん、ほんまにええんかな」

 ついにその時が来たか、と思った。叔父が東京進学の話を持ち出した明確な時期はおぼえていないが、父が亡くなる前にその話はまとまっていたはずだ。迷い続けた末の決め手はなんだったのか、それだけがはっきりと思い出せない。

「……隼人はどうしたいんだ?」

 生徒の進路相談に乗るときのように落ち着いた口調でそう言うと、彼は首を傾げた。

「……ようわからん。お父ちゃんも東京はええとこや、しっかり勉強してこいて言うけど、何がええんかわからん。俺はこの家におりたい」

 両足を抱えこむように座って、小さい隼人はつぶやく。
 彼が家にいたいと言う理由は、聞かなくてもわかることだった。
 隼人が腕を組んだまま息を吐きだすと、彼はちろりと視線を上げた。

「……兄ちゃんも、元々はこの辺に住んどったのに東京行ったんやろ? やっぱり行ってよかったと思う?」

 思いがけない質問に、息が止まりそうになる。感の鋭い彼に悟られないように、ゆっくり目を閉じてから考える。それから言葉を選んで、口にする。

「よかったかどうかは、正直よくわからない。行ってよかったと思うこともあるし、ここに残ればよかったと思うこともある。何がよかったかなんて、きっと人生の終わりにならなきゃわからないんだと思うよ」
「ふうん……そういうもん?」

 何だかよくわからない、と言いたげな顔つきで、彼は立ち上がった。人生の岐路に立たされた少年時代の自分がどう感じたかはわからないが、自分で言っておきながらなんて無責任な大人なんだろうなと苦笑したくなった。

「とにかく周りに流されず、自分の頭でしっかり考えるんだ。ちゃんと考えた末のことなら、きっと後悔しないから」

 そう言いながら小さい隼人の肩を叩く。これは進路指導の最後の決め台詞で、誰に対しても同じことを言うようにしている。大人の意のままになっていては、どの道を選んでも残るのは後悔だけだ。受かっても落ちてもそれだけは避けてほしいと、隼人が抱くささやかな願いだった。

「兄ちゃん、これもらってもええ?」

 そういって彼が手にしたのは「いくつといくつカード」だった。

「ああ……別にかまわないけど」

 そう言ってから、しまったあれは真夕のものだったと思ったが、もとの時代に戻ったときにまた作り直せばいいことかと考え直した。

「ありがとう。大事にするわ」
「そんなの、何に使うんだ?」
「へへ、俺の宝にするんや。そんで迷ったらこれ見て、兄ちゃんの顔を思い出すことにする」

 大人には「生意気な子供だ」と言われていた自分にも、こんなに無邪気な時代があったのかと、つい講師目線で「がんばれよ」と言いたくなってしまう。

 するとその時、廊下のむこうから何かが倒れるような音がした。記憶の底にこびりつくその振動は、隼人の中に眠っていた恐怖を呼び起こした。

「……お父ちゃん!」

 体が硬直していたのはわずか数秒のことだったが、小さな隼人がそう叫んで居間から飛び出すのを見て、隼人も慌てて父の部屋にかけこんだ。

 そこには頭を抱え込んだまま畳の上に倒れている父がいた。隼人は畳にふせて顔をのぞきこんだ。瞳は焦点が合わず、両足が痙攣をおこしている。

「お父ちゃん大丈夫か、すぐ救急車呼ぶからな!」

 そう叫ぶ小さい隼人の姿を見るなり、父は目の色を取り戻した。鶏ガラのように細い腕を伸ばして、彼の手をつかむ。

「……心配せんでええ。こんなんすぐ収まる。そこにある薬とってくれ」

 震えの収まらない指先で、赤茶けたタンスをさし示す。小さい隼人は「でも」と言いながら自分の顔をうかがってくる。父は凄みのある声で「はよう薬」とうめいている。

 父には隠していたが、じつは隼人が一人の時に父が倒れたらすぐ救急車を呼ぶように、と母に言われていた。こんな場面は父が亡くなるまでに数度あって、そのたびに「救急車は呼ばんでええ」と引き止められてしまい、当時の隼人は頭を悩ませた。

 抱きかかえた父の震えが少し弱まったのを感じ、隼人はタンスに視線を送ってうなずいた。父の死期を知っているからできる判断だったが、小さい隼人は恐怖に震えながら薬を取り出していた。
 枕元に置いてあった水のみを取り上げ、錠剤の薬と一緒に父の口に流し入れる。弱々しい動きではあったが何とか薬を飲みほし、自ら布団の中に入った。

「……すまんかったな。君がおってくれて助かったわ」

 白髪まじりの父が頭をもたげてそうつぶやく。隼人は「いえ」と返して、震えのおさまらない小さい隼人の肩をよせた。

「お父ちゃん……やっぱり救急車呼んだ方が」
「どうせ呼んだって散々待たされて検査してしまいや。家で寝とった方がええ」

 吐き出すようにそう言ったあと、木の枝のような腕を伸ばした。何か取ろうとしているのかと思ったら、その手は小さい隼人の膝小僧に乗った。