遙かなる流れ
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新しく立てられた店は近代的で、今迄の日本的な風情に溢れた建物とは正反対でした。身体障害者用にリフトまで用意されていました。それが中途半端で使い難いのはお役所仕事と言った処でしょうか。
開店と同時に予約で一杯になりました。人は新しい場所へと流れるものなのでしょう。私も夫もそして息子も一生懸命に働きました。実はこの時に、家を立てたローンの他に土地の関係での借金もあり、わたし達一家は、必死になって働かないとならなかったのです。
問題はこの年から管理が都から区に移管されました。大雑把だった都に比べ区は細かい所も管理して来ます。値段から料理の内容まで全てに渡って管理してくるのです。
それは、店側の自由を奪い膠着した献立になる事を意味しています。お役所がお客さまのニーズを判るハズが無いのです。その証拠にバブルが弾けると区の施設に入っていた飲食関係のお店は殆んど撤退して仕舞いました。それは、先ほど述べた理由と、自由に内装の模様替えが出来ない事です。
普通の飲食店はお客様の足が悪くなると改装して「新規開店」と称してお客様を呼ぶのです。それが、建物がお役所の管理だと、それが出来ません。その結果「何時行っても同じだから‥…」と言われ段々寂れて行くのです。それが役人には理解出来ません。
「業者さんの怠慢」の一言で片付けられて仕舞うのです。
私どもの処もその危険は孕んでいましたが、従来からあるお客様を大事にしていましたので、当分はその心配はありませんでした。もう一つは値段の設定です。兎に角安いのです。
例をあげると三百円前後でウチに納入されるビールの大瓶の値段が当時三百六十円売りでした。六十円しか差額が無いのです。
ビールの冷やし代やビールクラスの値段や洗浄のコストを考えると儲けはゼロです。一時が万事で区役所はこの通りなのです。ですので、ウチは薄利多売を心がけました。予約もできるだけ多く入れ、無駄の無い様にしました。
でもそれさえも、役所の管理下にあるので余り自由は利きません。地道にやるのみです。
そうですねえ。開店から十年間は忙しい日々が続き、なんとかローンも返済してきました。
次に夫が考えたのは、お客様の送迎でした。
マイクロバスを購入し、夫のハイヤー時代の友人にドライバーと運行管理者になって貰い、駅や近くの場所までの送迎を始めたのです。
これは特に役所に好評でした。この当時は官官接待が公然と行われていました。バスによる送り迎えと「自分達の施設」と言う気楽さから、役人のそう言った宴会の殆んどがウチに来る様になりました。まあ、でもそれもバブル崩壊と同時に無くなりましたが……
私と夫は時代、時代に合わせて何とか店を切り盛りしてきました。そして姑が亡くなって二十年後に全ての借金が無くなりなした。良く頑張ったと自分でもこの時は思いました。
息子も嫁を貰い女の子を儲けました。でも息子はその孫に跡を継がせる気は無いそうです。
「もう、料理屋の時代は終わったよ。母さん、それに今どき婿なんて、よっぽど財産が無ければ来ないよ。娘は貰い手があったら嫁にやるから」
そう言っています。それが時代なのでしょうね。少し寂しい気もしますが……
その後は息子が中心となって切り盛りしています。息子は仕入れも色々な処から確保しているようです。
値段の安い通販とかネットでの購入も早くからやっているみたいでした。もう、私達の様な物が出しゃばる時代では無いのかも知れません。
でも、店に出ないとボケてしまう、ので店に出てお客様には挨拶します。たまに出ないと「ばあさん死んだか?」と言う口の悪いお客が居るからです。まあ、古いお客さんなので、言いたい事を言い合うのですが……
そんな時でした。夫が交通事故で救急車で運ばれました。私と息子はすぐに駆けつけましたが、ここで問題が起こりました。
左の大腿骨が骨折していたのですが、手術の為検査した処、夫の心臓の血管が殆んど詰まっており、手術に耐えないと言うのです。このままでは手術も出来ずに寝たきりになってしまう……
私はそう考えて、家の近所の循環器専門の病院に転院させる事を選びました。事故から五日目に転院をして、翌週とりあえず、心臓の血管三本のうち、一番太い血管に
カテーテルの手術をする事になりました。
私はどうして、こんなに悪くなるまで黙っていたのか、夫に訊きました。そうしたら
「心臓ならあっと言う間に死ねるだろう」
と言うとんでも無い答えでした。
「いきなり死んだら困るのは私だから」
そう言って夫を窘めました。その時の夫の顔は、まるで叱られた子供そのものでした。
四時間に及ぶ手術の結果上手く行きました。後で先生に聞いた処、余りにも硬かったのでダイヤの歯を付けて削ったそうです。
それから一週間後に足の手術も行われました。骨折した箇所をボルトで固定する手術でした。予定では、手術からすぐにリハビリをする予定でいたが、ここで意外な病気が見つかったのです。
それは元からあった糖尿病から来る腎臓の機能低下でした。その結果、人工透析をする事に決まりました。
でもこの一回四時間で週に三回と言うのが夫の体力を少しずつ奪って行ったのです。それは食べ物を体が受け付けなくなって行ったのです。
点滴で保たせていましたが、それも限界があります。その結果、胃ろう、にする事になりました。
いわゆる胃に穴を開けて、直接食べ物を流し込む方法です。これなら吐き気が起こらないので、段々と体力が回復して、リハビリも出来る。と言う説明でした。夫も私も、それに掛けたのです。
胃ろうの手術後にぬるいお湯を入れて試すのですが、夫はここで拒否反応をしてしまったのです。
「不味い!中止だ!」
そういう声が私にも聞こえました。胃ろうは失敗に終わったのでした。
それからの夫は生きる気力も無くしてしまったみたいでした。私や息子や嫁がしきりに励ましますが、段々と衰弱して行きました。そして、事故から丁度半年後の四月八日お釈迦様の誕生日に夫は天に召されました。満八十でした。
葬式や色々な手続きは全て息子がやってくれました。あの子がここまで、こういう事に詳しいとは思いませんでした。灰になり骨になった夫は骨も痩せていました。足に埋め込んだボルトが痛々しげでした。
それでも私は店に出てお客様に挨拶をしています。もう、好きな時に友達と温泉に行ったり、旅行に行ったりします。その分、かっての私のやっていた事を息子がやっています。暫くは旅行にも行けないでしょう。それはこの仕事をやってる限り仕方無いと思います。
遥か北の地、樺太で生まれ、戦争に負けて青森に住みつき、東京に親の納骨に来てそのまま嫁に来て、五十数年が経ちました。もう私の御役目は終わったと思います。そう理解しています。
そうそう、夫は私を迎えに来てくれるのでしょうか?あの世に行ったならば、姑のいない新婚時代をもう一度過ごしたいと思う私です。きっとそれはもうすぐでしょう……
遙かなる流れ <了>