テオブロミン
壱
https://www.youtube.com/watch?v=PfMmuryI9oY
Isao Tomita Night On Bare Mountain (Modest Petrovic Mussorgsky)
突然の思わぬ豪雪の為、
カーヴでハンドルをとられて、
凍った路面をなんどかスピンして
ガードレールを突き破って
崖の上から放り出されて
20メートルほどあっただろうか
降り積もった柔らかな雪に突っ込み
横転した車内から命からがら抜け出し
抜け出した途端に車は更なる崖を滑り落ち
はるか崖の下でガソリンが漏れていたのか
ボン!と爆発した。
吹雪の中、暗い崖の下からもうもうと黒い煙が上がるのを見ると
ひとまずは命が助かったことにほっとした。
次に沸き起こったのは反省の念で。
急いだがばかりに県境の林道に入ったのが失敗だった。
この状況を誰かに知らせねば、と
ダウンジャケットのポケットをまさぐる。
そして後悔の念_。
携帯電話を車内に置き忘れた。
どっと疲労感が肩に圧し掛かった。
だが仕方ないじゃないか。
眼下の遥か下の崖の下で燃えている車まで
崖を下りてゆくしかない。
時計を見ると20:51だった。
恐る恐る歩を進めていたが、
雪だまりに足をとられバランスを崩して
雪の斜面を転がり落ちてしまった。
樹木の枝にぶつかり頬の辺りを切ってしまったようだ。
そこだけが熱を持って・・皮肉にも熱い。
他は全身凍えるような寒さで。
滑降が止まると、燃えている車は目前だった。
大きな樹木の立ち並ぶ中にへしゃげた車体が斜めになって燃えている。
其処だけが明るく温かい。
炎をよけながら壊れたドアを開けてダッシュボードの辺りに目をやると
携帯電話が見えたので腕を伸ばして取り上げた。
二つ折れの携帯電話を開くと
なんてことだ・・電池残量がほとんどない。
なんともしれない徒労感が膝を折った。
道路まで登るか_。
燃え上がる炎が明々と照らし出す崖を見上げると。
よくもあんなところを転げ落ちきて大怪我しなかったよな、と思える程の崖で。
とても登れるような崖ではない。
結局、車が燃え尽きるまでそこで暖をとるよりなかった。
だが徐々に火は小さくなり、吹き上げる風が強くなり吹雪が強くなった。
下に向かえば、いずれはどこかの人家があるだろう
とはいえ余りの寒さと強風を避けるため
崖を回り込むようにして岩場を登りはじめていた。
岩場を横切るように恐る恐る歩を進めてゆくと
岩と岩の間のような穴が風下側に口を開けていて
そこに転がり込んだ。
風が吹き込まないだけで随分と体感温度は違うものだ。
穴の中に縮こまって。吹雪をやり過ごす。
睡魔が襲ってきたが、岩が伝える外の冷気で眠ることは出来なかった。
それでも気がつくと寝ていたようで、雪を掻き分けて表に出ると
吹雪はやんでいて、薄らぼんやり明るくなっていた。
朝なのかと思い、時計を見ると既に昼前だった。
崖を見上げると遥か頭上に、突きやぶったガードレールが見えた。
今思えばどう転がり落ちてきたのかと思える程の
鋭角に聳え立つ崖で、車体が転げ落ちたであろう跡を
示すように木々が倒されていた。
そして、その先には我が愛車の無残な残骸が雪をかぶっていた。
なんとも仕方なく車の残骸まで引き返す。
なにか使えそうなものはないかと
探してみても、雪が積もっていて
掻き出す元気もなかった。
なにをどうしていいものか途方に暮れる。
寒さのなか、思いついたのは昨夜と同じことだった。
下に向かえば、いずれはどこかの人家があるだろう
重苦しい閉塞感いっぱいの雲の下、雪の中を歩き出す。
夕方までにはどこかの部落に出るだろう。
足元に気をつけながら歩を踏み出す。
しかし行けども行けども森は深くなるばかりで
不安になり視界の開けたところを探して
道無き道を登り始めた。
その途中に巨木が鋭利ななにかで
樹皮が引掻き剥されているのが見えた。
物凄い力で剥され木の幹に食い込む爪痕。
それが至る所に確認できた。
これは恐らくは熊・・しかも相当に大きな・・
そう思うと寒いうえに更に背骨がガタガタと
震えさせられる思いがした。
そんなことをしている間に、陽は傾き
ちらほらと粉雪が舞い散り始めた。
ようやく視界が開ける場所に辿りつくと
余りの光景に愕然とし膝を落とした。
混乱する頭と高ぶる感情を吐き出すしか
正常に保つことは出来そうになかった。
腹の底から大声を出して泣き叫んだ!
目の前に現れたのは愛車の燃え滓だったからだ。
半日近くこの辺りをうろうろしていただけだったのだ。
徒労感は絶望感に変わっていった。
冬の陽が落ちるのは早い。
粉雪は徐々に大きくなっていった。
重くなった身体をさらに重い足で支えながら。
すごすごと、結局昨夜過ごした岩の狭間の穴に
今夜もまた潜り込むしかなかった。