かいなに擁かれて 第十一最終章前編
第十一最終章~前編~
結城魅華のピアノの集大成としてのソロコンサート会場となる安宅サロンにあるピアノを魅華は実際にまだその指で弾いた事はなかった。同じスタインウェイであっても、魅華のピアノとは違っていることは彼女には分かりきっていた。
サロンのピアノはイベントや発表会などによって、様々な弾き手によって奏でられている。
魅華は自分の奏でるピアノに自身の渾身の魂を委ねたいと願っていた。自分の前に奏でた弾き手の技量や感性そしてそのピアノに込めた想いを断じて否定するものでは無いけれど、自分以外の弾き手の僅かでもその想いがピアノに遺されていたとしたら、自身の集大成として奏でるピアノに渾身の魂は宿れないと堅く信じていた。
魅華はオーナーである安宅氏に無理を頼み込んで、サロンのピアノで練習をさせてもらった。
そして、コンサート当日まで、そのピアノは誰の指にも触れさせて欲しくないことも。
魅華のわがままとも取れるような願いを、安宅は快く受け入れてくれた。
安宅は、ひとつ微笑んだかと思うと、魅華の目の前で自身がピアノに施錠をし、そしてその鍵を魅華の手のひらに委ね黙って頷いた。
「ありがとうございます」
魅華は心から感謝を込めて安宅に深く頭(こうべ)を下げた。
胸の奥深いどこから熱く込み上げる感情が魅華の全身を満たしていった。
「ソロコンサート。成功を祈っています」
それだけを魅華に言い残すと、安宅は会場を出て行った。
魅華は、その後姿にもう一度深く頭を下げた。
※
スタインウェイの鍵をバッグに大切にしまい魅華が安宅サロンを出た頃にはすっかり陽が暮れていた。
ソロコンサートの日まで二十数日となった十二月の夕暮れの神戸の街は賑わい過ぎるほどに賑わっていた。
その人波を縫って魅華はひとりルミナリエに輝く街を歩いた。
ルミナリエ会場に近い元町駅からフロントーネへと。
光の叙情詩。
魅華はその輝きをひとり見上げながら、そこに表現された個人の主観的な感情や思想、自らの内面的な世界。
それを観る人々に伝える詩。
そう。ワタシは、ピアノと共に、これまで自分が生きてきた人生そのものを、ワタシのピアノで表現するんだ。
このルミナリエの輝きのように。
フロントーネ。
光の叙情詩の輝きを全身に浴びながら、メイン会場となる東遊園地のスパッリエーラと呼ばれる光のモニュメントの中に入ると魅華は光のアートに囲まれた。
中には鐘がたくさん釣り下がっている募金箱があった。
魅華はコインを入れてみた。
鐘にコインが当たると幸せな鐘の音が夜のルミナリエ会場に響き渡った。
温かく優しく慈しむように、
かいなに擁かれて心地よく寝入るような響きであった。
『魅華は独りじゃない。オレがずっと傍にいてやるよ』
かつての言葉。
擁かれていた。
あの頃は。
今は、何もかもが――、懐かしい。
元町駅からフロトーネの幾重にも重なった光のアーチの中を歩き、スパッリエーラの光のモニュメントを抜けて、やがて三ノ宮駅に近くなった辺りで、魅華は、今、歩いてきた方を振り返った。
そこには、光輝いた無数のアーチがまるで、漆黒の闇を完全に支配した希望と平和に満ち溢れた未来を指し示す荘厳の輝きが煌いていた。
人波に押されるように三ノ宮駅近くまで来たところで、魅華の視界の隅に、サンタクロースの衣装を纏い、何やらビラらしき紙切れを歩道で配っている人影が、人波の隙間から映った。
歩道を進み、駅前のデパートを過ぎて、少し南に下って三ノ宮センター街を左に折れ、東西の車道を二本渡ったところ。
そこは旧居留地――。
車道を渡る横断報道の信号を待っている時だった。
何気なく隣で信号待ちをしている女性が手にしているビラが魅華の目に留まった。
<結城魅華ソロピアノコンサート12月24日>
「えっ!」
(誰が、こんなところで、ワタシのコンサートの……)
魅華は、さっき見かけたサンタクロースの方を振り返ったが、人波ばかりで何も見えなかった。
(もしかして、信ちゃん? いや、そうじゃない。体型が全然違う…ワタシに黙ってそんなことする人はいないはず……)
魅華のソロコンサートを知る者はそんなに多くは居ない。
しかし、その誰かだと考える以外には全く想像がつかない。
だとしても、やっぱりおかしい。こんな人波の中で無名の自分のソロコンサートなんかの為にビラを配っても仕方がないじゃないか。
確かにチケットの売れ行きなんて、身内と呼べる音楽仲間や友達、それに納屋の常連さん達。
一部百名で二部構成にしている全チケット二百枚なんて売り切ることなんて絶対に不可能だと魅華は思っていた。
応援してくれている皆は、それぞれの人脈を使ってチケットを何とか売る努力をしてくれている。
でもやっぱり、多かれ少なかれ、お客さんとなるのは何らかの知人であるはずなのに、ましてこんな人ごみの中で自分のソロコンサートのビラを配るなんて、やっぱり有り得ない。
魅華は、伊原木信や皆に確かめてみようと思った。
※
信号が変わった。
ビラを片手にしたアベックは人波の中に消えていった。
東西の車道を二本渡り、旧居留地に佇む教会に向かって歩く。
この辺りだったかな。
幼い頃に、父の手に引かれよく歩いた街並み。
記憶を辿るように辺りを見渡した。
山手通りに沿ってどれくらい歩いただろう。先に緩やかな山の稜線の中に浮かび上がる石造りの礼拝堂のシルエットがあった。
間違いない。アソコだ。
山手通りに沿って、両側の歩道に面したレストランやカフェ。
そして、その歩道を歩く人影。それぞれの店内に映る人影のどれもが家族連れであったり、恋人たちであったりした。
そんな中を魅華はたった独りで教会に向かって歩いた。
『魅華は独りじゃない。オレがずっと傍にいてやるよ』
魅華が独りであることを噛み締めるとき、決まって脳裏にその声が聞こえた。単なる幻聴にしか過ぎないのかも知れない。
きっとそうだ。
今は、コンサートのことだけを考えよう……。
幼かった頃から始めたピアノ――。
それは、魅華が父に手を引かれ、初めてその教会に行った日に彼女はピアノに魅せられた。
父と二人で礼拝堂に入った時、二人を迎えてくれたのが、父の友人でもあり事業のパートナーでもあったエドワード・レット・ハンターであった。
当時エドワードの最愛の妻ドロシーは余命幾許も無い病床にあった。
エドワードは、既に成す術も無い自身の無力さを、祈る事しか妻にしてやれることが無いと教会で語った。
父と魅華はエドワードと共に祈った。
妻ドロシーは、幼い頃からピアノを愛した女性だった。
エドワードの曽祖父が貿易商として、神戸に移住したとき、その妻の為に祖国から持ってきたピアノがあった。
奥行が二メール七十センチを超えるスタインウェイのフルコンサートグランドピアノ。
1867年パリで万国博覧会が催された頃に創られたピアノ。
エドワードの曾祖母から祖母へ。
結城魅華のピアノの集大成としてのソロコンサート会場となる安宅サロンにあるピアノを魅華は実際にまだその指で弾いた事はなかった。同じスタインウェイであっても、魅華のピアノとは違っていることは彼女には分かりきっていた。
サロンのピアノはイベントや発表会などによって、様々な弾き手によって奏でられている。
魅華は自分の奏でるピアノに自身の渾身の魂を委ねたいと願っていた。自分の前に奏でた弾き手の技量や感性そしてそのピアノに込めた想いを断じて否定するものでは無いけれど、自分以外の弾き手の僅かでもその想いがピアノに遺されていたとしたら、自身の集大成として奏でるピアノに渾身の魂は宿れないと堅く信じていた。
魅華はオーナーである安宅氏に無理を頼み込んで、サロンのピアノで練習をさせてもらった。
そして、コンサート当日まで、そのピアノは誰の指にも触れさせて欲しくないことも。
魅華のわがままとも取れるような願いを、安宅は快く受け入れてくれた。
安宅は、ひとつ微笑んだかと思うと、魅華の目の前で自身がピアノに施錠をし、そしてその鍵を魅華の手のひらに委ね黙って頷いた。
「ありがとうございます」
魅華は心から感謝を込めて安宅に深く頭(こうべ)を下げた。
胸の奥深いどこから熱く込み上げる感情が魅華の全身を満たしていった。
「ソロコンサート。成功を祈っています」
それだけを魅華に言い残すと、安宅は会場を出て行った。
魅華は、その後姿にもう一度深く頭を下げた。
※
スタインウェイの鍵をバッグに大切にしまい魅華が安宅サロンを出た頃にはすっかり陽が暮れていた。
ソロコンサートの日まで二十数日となった十二月の夕暮れの神戸の街は賑わい過ぎるほどに賑わっていた。
その人波を縫って魅華はひとりルミナリエに輝く街を歩いた。
ルミナリエ会場に近い元町駅からフロントーネへと。
光の叙情詩。
魅華はその輝きをひとり見上げながら、そこに表現された個人の主観的な感情や思想、自らの内面的な世界。
それを観る人々に伝える詩。
そう。ワタシは、ピアノと共に、これまで自分が生きてきた人生そのものを、ワタシのピアノで表現するんだ。
このルミナリエの輝きのように。
フロントーネ。
光の叙情詩の輝きを全身に浴びながら、メイン会場となる東遊園地のスパッリエーラと呼ばれる光のモニュメントの中に入ると魅華は光のアートに囲まれた。
中には鐘がたくさん釣り下がっている募金箱があった。
魅華はコインを入れてみた。
鐘にコインが当たると幸せな鐘の音が夜のルミナリエ会場に響き渡った。
温かく優しく慈しむように、
かいなに擁かれて心地よく寝入るような響きであった。
『魅華は独りじゃない。オレがずっと傍にいてやるよ』
かつての言葉。
擁かれていた。
あの頃は。
今は、何もかもが――、懐かしい。
元町駅からフロトーネの幾重にも重なった光のアーチの中を歩き、スパッリエーラの光のモニュメントを抜けて、やがて三ノ宮駅に近くなった辺りで、魅華は、今、歩いてきた方を振り返った。
そこには、光輝いた無数のアーチがまるで、漆黒の闇を完全に支配した希望と平和に満ち溢れた未来を指し示す荘厳の輝きが煌いていた。
人波に押されるように三ノ宮駅近くまで来たところで、魅華の視界の隅に、サンタクロースの衣装を纏い、何やらビラらしき紙切れを歩道で配っている人影が、人波の隙間から映った。
歩道を進み、駅前のデパートを過ぎて、少し南に下って三ノ宮センター街を左に折れ、東西の車道を二本渡ったところ。
そこは旧居留地――。
車道を渡る横断報道の信号を待っている時だった。
何気なく隣で信号待ちをしている女性が手にしているビラが魅華の目に留まった。
<結城魅華ソロピアノコンサート12月24日>
「えっ!」
(誰が、こんなところで、ワタシのコンサートの……)
魅華は、さっき見かけたサンタクロースの方を振り返ったが、人波ばかりで何も見えなかった。
(もしかして、信ちゃん? いや、そうじゃない。体型が全然違う…ワタシに黙ってそんなことする人はいないはず……)
魅華のソロコンサートを知る者はそんなに多くは居ない。
しかし、その誰かだと考える以外には全く想像がつかない。
だとしても、やっぱりおかしい。こんな人波の中で無名の自分のソロコンサートなんかの為にビラを配っても仕方がないじゃないか。
確かにチケットの売れ行きなんて、身内と呼べる音楽仲間や友達、それに納屋の常連さん達。
一部百名で二部構成にしている全チケット二百枚なんて売り切ることなんて絶対に不可能だと魅華は思っていた。
応援してくれている皆は、それぞれの人脈を使ってチケットを何とか売る努力をしてくれている。
でもやっぱり、多かれ少なかれ、お客さんとなるのは何らかの知人であるはずなのに、ましてこんな人ごみの中で自分のソロコンサートのビラを配るなんて、やっぱり有り得ない。
魅華は、伊原木信や皆に確かめてみようと思った。
※
信号が変わった。
ビラを片手にしたアベックは人波の中に消えていった。
東西の車道を二本渡り、旧居留地に佇む教会に向かって歩く。
この辺りだったかな。
幼い頃に、父の手に引かれよく歩いた街並み。
記憶を辿るように辺りを見渡した。
山手通りに沿ってどれくらい歩いただろう。先に緩やかな山の稜線の中に浮かび上がる石造りの礼拝堂のシルエットがあった。
間違いない。アソコだ。
山手通りに沿って、両側の歩道に面したレストランやカフェ。
そして、その歩道を歩く人影。それぞれの店内に映る人影のどれもが家族連れであったり、恋人たちであったりした。
そんな中を魅華はたった独りで教会に向かって歩いた。
『魅華は独りじゃない。オレがずっと傍にいてやるよ』
魅華が独りであることを噛み締めるとき、決まって脳裏にその声が聞こえた。単なる幻聴にしか過ぎないのかも知れない。
きっとそうだ。
今は、コンサートのことだけを考えよう……。
幼かった頃から始めたピアノ――。
それは、魅華が父に手を引かれ、初めてその教会に行った日に彼女はピアノに魅せられた。
父と二人で礼拝堂に入った時、二人を迎えてくれたのが、父の友人でもあり事業のパートナーでもあったエドワード・レット・ハンターであった。
当時エドワードの最愛の妻ドロシーは余命幾許も無い病床にあった。
エドワードは、既に成す術も無い自身の無力さを、祈る事しか妻にしてやれることが無いと教会で語った。
父と魅華はエドワードと共に祈った。
妻ドロシーは、幼い頃からピアノを愛した女性だった。
エドワードの曽祖父が貿易商として、神戸に移住したとき、その妻の為に祖国から持ってきたピアノがあった。
奥行が二メール七十センチを超えるスタインウェイのフルコンサートグランドピアノ。
1867年パリで万国博覧会が催された頃に創られたピアノ。
エドワードの曾祖母から祖母へ。
作品名:かいなに擁かれて 第十一最終章前編 作家名:ヒロ