かきつばた
あれから十と二年……。
夏乃は明日、大ちゃんの知らない誰かのお嫁さんになる。カーテンが外され、だだっ広くなった部屋の窓から暗い夜空を見上げ、彼女はそっと目を閉じた。
大ちゃん、うちな……明日、結婚すんねん。
まぶたの内に、懐かしい彼の姿を思い描く。転校してきてすぐの熊みたいだなと思ったときの顔……、面白いものまねで自分や美也ちゃんのことを笑わせてくれたときの顔……、野に咲いた草花のことを誇らしげに説明してくれたときの顔……、そしてカキツバタの群生する池の前で寂しそうに微笑んだときの顔……。記憶の底をていねいにさらってひとつずつ大切に拾い上げた大ちゃんの面影は、しかしどの顔も、どの顔も、まるで朧月みたいに淡くかすんで見えた。着ていた服や、髪型や、顔の輪郭は、はっきりと思い出せる。でも肝心の顔の部分だけがなんだか優しい光のかたまりみたいになって、ぜんぜん浮かび上がってこないのだ。夏乃はしばし呆然となった。
うち、知らんまに大ちゃんの顔忘れてしもてん、くやしいわあ。お葬式んとき絶対忘れへんて誓こたのに。そやのに、けっきょく忘れてまうやなんて。かんにんなあ、大ちゃん……。
もう一度目を閉じてみる。やはり大ちゃんの顔は、光の彼方にかすんで見えた。
でも……。
それとは対照的に、鮮やかな感覚をもって脳裏に甦ってくる色があった。
――カキツバタの花が見せる群青色だ。
その匂い立つような鮮烈の青は、遠ざかる大ちゃんのイメージを優しく包みこんだまま、いつまでも、いつまでも夏乃の胸の内にうずまいて、楽しかった子供のころの思い出や、かつてひとりの少年が思い描いた夢のことを、色鮮やかに訴えつづけるのだった……。
(※ 関西弁を監修してくださった、かじゅぶさんへ。この場をお借りして改めてお礼申し上げます。ありがとうございました)