影さえ消えたら 1.消失
「おまえんとこのお母さんが亡くなった言うて、うちのおかん、えらいへこんでたんや。急なことで大変やったなあ。東京から来たんか? 仕事はどうしてるんや」
「実家をあのままにしておけないし、少し片づけようと思って有給を取ってきたんだ」
「ここにはいつまでおるんや?」
「週明けには戻るつもりだけど」
「ほんならいっぺん二人で飯行こや。話もたんまりあるしなあ。そや、あいつもきとるんや」
大輔は勝手に話を進めてしまうと、座敷にむかって手をふった。店中に響きそうな大声で「やっぱり隼人やでー!」と叫ぶ。東京では決してなかった慣れ慣れしいやりとりにうんざりしながらも、懐かしく感じている自分がいた。
喧騒のむこうから姿を見せたのはロングの巻き髪をアッシュカラーに染めた、派手な女性だった。
記憶に存在する誰とも像を結べず、綾女に助け船を出すと、彼女はぼそりとつぶやいた。
「琴菜や。黒縁めがねにおさげの、牧琴菜」
そう囁いたが、その女性は「それを言わんといてよ」と言いながら隼人に近づいてきた。
店内の照明が薄暗いこともあって、表情がはっきりと見えない。隼人が首をひねっていると、彼女はすぐそばまで顔をよせて、目の上に指で丸を作った。
「小六のとき、一緒に図書委員やったやん。あたしがどんくさくて、かばん忘れて図書準備室に閉じこめられたんや。おぼえてへんの?」
酔いの回った脳で記憶を掘り起こす。小学六年の時、たしかに図書準備室に閉じこめられたことがあった。ひとりではなくて、さめざめと泣く女子がいた。めんどくさいことになったと思って必死になってドアを叩いた。あの時の黒縁眼鏡の女子が、牧琴菜――
「嘘だろ……別人じゃないか」
「あたし、一時期関東に住んでたんだ。だからそっちの言葉も話せるよ」
突然、標準語に切りかわった。わざとらしく髪をかき上げると、大輔が彼女の背中を押した。
「おまえの東京ことばなんか、胡散臭くてかなわんわ」
「うっさいなあ。あんたが弁護士やってる方がよっぽど胡散臭いわ」
眉間に皺を寄せてそう言うと、大輔の腹のあたりに肘鉄をくらわせた。その遠慮ないやり取から、二人がそれなりの仲なのは想像できた。
大輔は無遠慮に隼人の隣に座ると、店員にビールを注文した。綾女の隣には琴菜が座る。大輔の大きな図体のせいで、周囲の酸素が途端に薄くなる。
ビールジョッキが四つ運ばれてくると、彼はテーブルの皿を押しのけて配り始めた。
「今夜は俺のおごりや! 隼人との再会にかんぱーい!」
ひときわ大きな声で叫ぶと、どこからともなく歓声が上がった。座敷の連中どころか店員まで手を叩き始めて、大輔がこの店の常連だということがわかる。
「こいつ酔うたらめんどうなんや。適当に合わしといて」
むかいに座った綾女がこっそり耳打ちをしてくる。うなずこうとした途端、大輔に肩を取られた。うながされるままにビールを一気飲みをする。
炭酸の気泡が喉の奥ではじけている。調子づいた大輔が何やら綾女と話しているが、聞きなれない人名ばかりで隼人はついていくことができない。
彼らとの間に時間の隔たりを感じて、ただ相槌をうつことしかできなかった。
作品名:影さえ消えたら 1.消失 作家名:わたなべめぐみ