最初の一歩
悪いわねえ、毎年うちのぶんまでおせち分けてもらって。
エプロンで手をぬぐいながら叔母が言う。
自分でつくれば良いんだけど、仕事がいそがしくて。
どうせ商売もんの余りですから。
母からあずかったふろしき包みを手渡した。料理のはいった重箱が三段。仕出し屋をいとなむ実家で、年末に売り出しているものだ。注文を受けたよりも多めにつくるから、余ったぶんは毎年ご近所や親戚へおすそ分けしている。
ちょうど、おそばが茹であがったところなの、良かったら食べてゆきなさいよ。
そう言って返事もきかず、叔母は奥へと引っ込んだ。おれがあがり込むものと決めつけている。少し迷ったけど、実家から歩いて十分足らずの距離だ。それに、ひさしぶりで明希の顔も見たかった。
じゃあ、ちょっとお邪魔します。
居間とつづきの和室へゆき、まず仏壇に手を合わせる。一昨年に亡くなった義理の叔父が、写真のなかで微笑んでいた。ゴルフ好きだった彼のクラブセットは、受け継ぐものもなく部屋のすみで埃をかぶっている。
順ちゃんが東京へ行ってからもう二年になるのかしら。早いわねえ。むこうの暮らしには慣れた?
叔母がちゃぶ台のうえに湯のみをならべて、お茶をそそぐ。
仕送りじゃ足りなくてアルバイトばかりしていますよ。
大学は楽しいでしょう。
そうですね。けど就職難で、卒業したあとのこと考えるとちょっと憂鬱です。
すぐに湯気のたつどんぶりが運ばれてきた。年越しのそばだ。まるいちゃぶ台に――どんぶりがふたつ。
あれ、明希ちゃんのぶんは?
あの子はいいのよ、後で部屋へ持ってゆくから。
一緒に食べないんですか?
そう尋ねると、叔母はあいまいな笑みを浮かべ視線をそらした。
紅白歌合戦も終わり、テレビ画面が「ゆく年くる年」の題字をうつし出す。叔母は、なぜだかひどく疲れた顔をしていた。
じゃあ、いただきます。
そばがのびてはいけないので先に箸をつける。二十四インチの液晶テレビから、おごそかに清水寺の鐘が聞こえてきた。
お味はどう? うん、美味しいです。
叔母も箸を取ったが、どんぶりを見つめたままで深く息をついた。
お母さんからなにも聞いてない?
え、なにがですか。
あの子ね、もう長いこと高校へ行ってないのよ。
明希ちゃんが?
驚いて叔母の顔を見つめる。母よりも十若いはずだからまだ三十代なのに、目尻にしわが増えひどく老けて見えた。
高二の夏休みからなの。出席日数が足りてなくて、まだ二年生のままなのよ。
明希は、大学二年のぼくより二つ年下で、本来ならば今は受験勉強の追い込みをしているはずだった。
ひょっとして明希ちゃん、どこかからだを壊してるんですか?
そうじゃないの。本人が行きたがらないだけ。しかも理由をはっきりとは言わないのよ。一応学校にも相談したんだけど、時間ばかりが過ぎてしまって。
トウガラシを振りすぎて汁が真っ赤になった。天真爛漫という言葉がぴったりの彼女に、いったいなにがあったのか。
ちょっと明希ちゃんとお話しさせてもらっても良いですか? ごめんね、いつも部屋に鍵をかけて出てこないの。じゃあドア越しに声をかけるだけでもかまいませんから。
急いでそばをすする。明希とは家が近く、互いにひとりっ子だったせいで、幼いころから兄妹のように接してきた。連れ立って公園へ遊びに行ったり、宿題をみてあげたり。うんと小さいころにはよくこの家へ泊めてもらい、布団を敷きならべて夜通しおしゃべりをした。さすがに中学生になってからはあまり会わなくなったけど、それでも気の置けない妹のような存在であることに変わりはない。
ごちそうさま。空になったどんぶりをキッチンまで運び、そのまま二階へあがる。白い化粧板のドアに、丸っこい文字でAKIと書かれたプレートがさがっている。すべて、むかしのままだ。
おうい明希、いるのか。おれだよ、順也だ。去年はさ、金がなくて帰れなかったけど、今年はなんとか新幹線の切符が買えたんだ。いや、ほんっと会うのひさしぶりだよなあ。どうよ、元気にしてたか?
返事はない。
おまえの顔見るのマジ楽しみにしてたんだ。なあ、ちょっと入ってもいいかな?
そっとドアを押してみる。やはり鍵がかけられていた。
おれ三日までこっちにいる予定だから、良かったらどっか遊びに行こうぜ。
部屋のなかからはコソリとも音がしない。
あ、たばこ屋の二階に住んでたゲンちゃんって大学生、おぼえてるか? でぶげんだよ。ほら、子どものころよくアイスおごってもらったろう。このあいだ代々木駅の近くで、ばったり会ってさ。彼、今なにしてると思う? 消防士だぜ。体型も見違えるほどスリムになって、きれいな奥さん連れちゃってさ。最初声をかけられたとき、だれだか分からなかったよ。
まるで反応がない。さすがにドアへむかって一方的に話すのがつらくなってきた。もしかすると寝ている可能性もある。
あのさ、おばさんに携帯番号とメールアドレス教えておくから。ひまだったら連絡してよ。
あきらめて階段をおりようとしたとき、背後でカチャリと鍵のはずれる音がした。
……明希?
もう一度ドアを押してみる。今度は抵抗なくスーッと開いた。
明希……おまえ。
部屋のなかは勉強机のスタンドだけがともされ、薄暗かった。中学生のころふざけて女子更衣室に忍び込んだことがある。そのとき嗅いだ饐えたようなにおいが、なん倍にも凝縮され充満していた。明希はベッドのすみでひざを抱え、うつむいていた。髪がずいぶんと伸びている。そのせいで表情がよく見えない。叔父の葬式で会ったときには、たしかスポーティな感じのするショートカットだったはずだ。
時の流れを止めてしまった彼女の部屋は、放置され藻が生えた水槽のように、ここへ引きこもったときの空気をいまだ澱ませている。おれは、しばらく言葉が出てこなかった。
おまえ、いろいろあったんだってな。ぜんぜん気づいてやれなくて、ごめんな。
明希はひざのあいだに顔をうずめたまま、なにも言わない。
参ったなあ、良く考えたらおれ、おまえになにかアドバイスしてやれるほど人生経験つんでないや。
カーテンを透かして、結露した窓をつたい落ちる水滴が影絵のように映り込んで見える。居間でつけているテレビとはべつに、どこかで鐘をつく音が聞こえた。
そうだ、もうすぐ年も明けるし、二丁目の天神さまへお参りに行ってみないか。しょぼい神社だけど、ご利益あるんだぜ。おれみたいに勉強ダメなやつでも、ちゃんと大学受かったしな。
少し間があって、明希がうつむいたまま首をふった。
無理……こわくて部屋から出られない。
ほとんど息を吐いただけのような、かすれた声だった。
おれがずっと手をつないでてやるから。
ぜったい無理。
それからはもう、なにを話しても応えてはくれなかった。
おばさんが心配してるだろうから、もう行くよ。
頭のうえにそっと手を置いてやる。