台風の夜
裕太がいなくなった。沖縄本島が強力な台風12号に襲われた日の夜のことだった。母親が仕事から帰ったときには、すでに姿が消えていたらしい。
裕太の母は松山で水商売をしている。数年前に離婚し、女手ひとつで裕太を育てていた。息子の姿が見えないことは気になったが、酔っていたし、裕太が勉強の合間に近所のコンビニに行くことは知っていたので、そのまま眠ってしまった。朝になっても帰らないのにさすがに慌て、警察に連絡したのだという。
武徳はそのことを夕食時の世間話として母親から伝え聞いた。
「近所のひとたちもみんなで探してるらしいけど、まだ見つかってないみたいよ」
晩酌をはじめた父のためにラフテーをあたためなおしながら、母親がいう。
「変な遊びするような子じゃなかったけどね。どこに行ったかね」
「別れたお父は倭にいるのか?」
「沖縄にいるはずよ」
「じゃあ、そっちに行ってるんじゃないか?」
「それが、お父は知らんっていってるわけさ。嘘ついてるかもしれんけど」
大仰に首を振って、母親は息子たちのほうに向きなおった。
「ただの家出だはずね。あんたたちも気をつけなさいよ」
兄の武彦は黙って頷いた。武徳は肩を竦めた。
「家出に気をつけるば?」
「ちがうさ。台風のときには外に出ないこと。学校が終わったら、まっすぐ帰ってくること」
「裕太は家出っていったやし」
「あんたはなんでいちいち口ごたえするね」
母親は呆れた口調でいって、父の泡盛を棚から出した。父親は宮古島の生まれで、アルコールには強い性質だった。すでに一升瓶を半分ほど飲んでいるのにもかかわらず、平坦な調子で口を挟む。
「だいじょうぶよ。武徳はしっかりしてるさ。なあ、武徳」
武徳は答えず、箸を置いて部屋に向かった。兄とふたりでつかっている部屋は狭く、畳は擦れて痛んでいた。
父は悪人ではないが、野心に欠けている。配管工として毎日地味な作業をこなす姿が、武徳の目にはもどかしく映った。父のようにはなるまいと思う一方で、おそらくそうなるだろうという諦念がある。
襖ごしに両親と兄の話す声が聞こえる。高校に入って野球部に所属している兄の部活動の内容について。武徳には関係のない話だった。
武徳も兄とともにジュニア・チームで野球をやっていたが、中学の監督とそりがあわず、1年でやめてしまった。その後教師のすすめで空手部に籍を置いたものの、部にはほとんど顔を出していなかった。
学校の成績も下から数えたほうが早い。できのいい兄とは比較にもならなかった。
買ったばかりの携帯電話にイヤホンを差しこみ、ダウンロードしてある音楽を聴く。家族の会話が消え、思考はべつの方向へ移った。
武徳たち一家は、県外への移住で買い手を探していた親戚からこの小さな家を譲り受け、引っ越してきた。もちろん、賃貸アパートよりははるかに広く、すぐそばに海もある快適な立地条件だったが、潮風が直接吹きつけるために壁の損傷が激しく、虫も多かった。
裕太は前のアパートのちかくに住んでいて、幼稚園のときから仲がよかった。小学校でも一度おなじクラスになったが、武徳は野球に夢中で、体の弱い裕太とはあまり遊ばなくなった。転校するときも、たくさんの友達にプレゼントをもらったり、お別れ会をひらいてもらったりしたが、裕太とは言葉を交わしたおぼえがない。
武徳としては、たった今母親の話を聞くまで、裕太のことはすっかり忘れていた。このまま思い出すことなくおとなになっていくものだと思っていた。
いつの間にか、兄が部屋に入ってきていた。勉強机に参考書を広げてから、ベッドに寝そべる武徳を見下ろした。
「裕太のこと、心配あんに?」
気を遣ったつもりなのだろう。控えめに声をかける。裕太はイヤホンをつけたまま、目を瞑った。
「そんなには仲よくなかったし」
「仲よかったやし。いつも一緒だっただろ」
ふたつ年上の兄は、武徳よりも鮮明に子供時代を記憶しているらしかった。武徳には釈然としない思いしかなかった。友達だったのは確かだが、兄がいうほど親しかったのだろうか。記憶は曖昧で、なにをして遊んだのか、どんな場所に行ったのかなど、具体的なことはなにも思い出せなかった。
周囲の風景を観察して、自分が夢を見ているのだとわかった。気がつくと、ふだん生活している家ではない、他人の家にいた。いつの間にか眠ってしまったのだと、不思議なほど冷静な頭で考えた。
夢のなかの武徳は、15歳ではなく、10歳の小学生だった。畳の上に直接敷かれた布団に寝転がっている。部屋にはエアコンがなく、扇風機が左右に首を回しながら風をつくっていた。肌にまとわりつく生ぬるい空気までもが、リアルに感じられた。
武徳は兄のお下がりのズボンを履いていた。白いタンクトップは汗で腹に貼りついていた。仰向けになって、漫画を読んでいる。その横で、裕太が膝を立ててテレビを見ていた。裕太の住んでいるアパートだと、自分を俯瞰するもうひとりの武徳は思った。
ふたりが他愛のない会話をしていると、突然ドアが開いた。裕太の父親が帰ってきたのだ。朝まで飲んでいたらしく、全身からきついアルコール臭を漂わせている。女性用とすぐにわかる香水の匂いもした。どこかのスナックで飲んできたのだろう。裕太の父は上機嫌だった。
裕太がなにかいった。子ども心に父の軽薄さに嫌悪をおぼえ、詰ったのかもしれない。父親は鼻で笑い、裕太の頭を叩いた。酔いのせいで、加減ができなかった。大きな音がして、裕太はその場に倒れこんだ。
うずくまった裕太の背中を父親が蹴る。表情には怒気はない。むしろ、笑みさえ浮かんでいた。怒っているのではなく、ふざけているのだ。
武徳は止めようとしてしがみついたが、あっけなく抑えこまれた。スポーツをしているとはいえ、小学生がおとなの男の力に適うはずがなかった。
父親の悪ふざけはそれだけにとどまらなかった。実の子供とその友達を正座させ、呂律の回らない口でなにごとかしゃべっている。おそらく、子供にはわからない性的な欲求やその結果についてだろう。しゃべり終えると、なにか思いついたかのように、身を屈めた。
裕太の父親は、裕太と武徳に脱衣を命じた。そして互いの体を愛撫させた。拒否すると頭を叩かれたり、背中を蹴られたりした。嫌がる裕太の頭を抑えつけ、武徳のまだじゅうぶんに成長していない生殖器官を口に含ませた。
裕太と武徳はふたりとも恐怖に怯えた。烈しく泣くと、父親はうんざりして手を離した。つまらないと舌打ちして、家を出て行った。
行きすぎた悪戯だった。その後離婚して、息子と離れた父親はおぼえてもいないだろう。武徳も、裕太と距離を置き、ほかの友達と遊ぶようになって、無意識に記憶そのものを頭から取り除いてしまった。裕太はどうだっただろうか。それほどつよい少年だったか。
武徳には裕太以外にも友達がたくさんいた。転校する日には、一日中クラスメイトたちに囲まれていた。涙を流す女子もいた。その輪からすこし離れたところで、裕太が武徳を見ていた。声をかけることはなく、ただじっと見つめつづけるだけだった。視線に気づいていながら、武徳は無視した。裕太の存在を意識から削り取った。
裕太の母は松山で水商売をしている。数年前に離婚し、女手ひとつで裕太を育てていた。息子の姿が見えないことは気になったが、酔っていたし、裕太が勉強の合間に近所のコンビニに行くことは知っていたので、そのまま眠ってしまった。朝になっても帰らないのにさすがに慌て、警察に連絡したのだという。
武徳はそのことを夕食時の世間話として母親から伝え聞いた。
「近所のひとたちもみんなで探してるらしいけど、まだ見つかってないみたいよ」
晩酌をはじめた父のためにラフテーをあたためなおしながら、母親がいう。
「変な遊びするような子じゃなかったけどね。どこに行ったかね」
「別れたお父は倭にいるのか?」
「沖縄にいるはずよ」
「じゃあ、そっちに行ってるんじゃないか?」
「それが、お父は知らんっていってるわけさ。嘘ついてるかもしれんけど」
大仰に首を振って、母親は息子たちのほうに向きなおった。
「ただの家出だはずね。あんたたちも気をつけなさいよ」
兄の武彦は黙って頷いた。武徳は肩を竦めた。
「家出に気をつけるば?」
「ちがうさ。台風のときには外に出ないこと。学校が終わったら、まっすぐ帰ってくること」
「裕太は家出っていったやし」
「あんたはなんでいちいち口ごたえするね」
母親は呆れた口調でいって、父の泡盛を棚から出した。父親は宮古島の生まれで、アルコールには強い性質だった。すでに一升瓶を半分ほど飲んでいるのにもかかわらず、平坦な調子で口を挟む。
「だいじょうぶよ。武徳はしっかりしてるさ。なあ、武徳」
武徳は答えず、箸を置いて部屋に向かった。兄とふたりでつかっている部屋は狭く、畳は擦れて痛んでいた。
父は悪人ではないが、野心に欠けている。配管工として毎日地味な作業をこなす姿が、武徳の目にはもどかしく映った。父のようにはなるまいと思う一方で、おそらくそうなるだろうという諦念がある。
襖ごしに両親と兄の話す声が聞こえる。高校に入って野球部に所属している兄の部活動の内容について。武徳には関係のない話だった。
武徳も兄とともにジュニア・チームで野球をやっていたが、中学の監督とそりがあわず、1年でやめてしまった。その後教師のすすめで空手部に籍を置いたものの、部にはほとんど顔を出していなかった。
学校の成績も下から数えたほうが早い。できのいい兄とは比較にもならなかった。
買ったばかりの携帯電話にイヤホンを差しこみ、ダウンロードしてある音楽を聴く。家族の会話が消え、思考はべつの方向へ移った。
武徳たち一家は、県外への移住で買い手を探していた親戚からこの小さな家を譲り受け、引っ越してきた。もちろん、賃貸アパートよりははるかに広く、すぐそばに海もある快適な立地条件だったが、潮風が直接吹きつけるために壁の損傷が激しく、虫も多かった。
裕太は前のアパートのちかくに住んでいて、幼稚園のときから仲がよかった。小学校でも一度おなじクラスになったが、武徳は野球に夢中で、体の弱い裕太とはあまり遊ばなくなった。転校するときも、たくさんの友達にプレゼントをもらったり、お別れ会をひらいてもらったりしたが、裕太とは言葉を交わしたおぼえがない。
武徳としては、たった今母親の話を聞くまで、裕太のことはすっかり忘れていた。このまま思い出すことなくおとなになっていくものだと思っていた。
いつの間にか、兄が部屋に入ってきていた。勉強机に参考書を広げてから、ベッドに寝そべる武徳を見下ろした。
「裕太のこと、心配あんに?」
気を遣ったつもりなのだろう。控えめに声をかける。裕太はイヤホンをつけたまま、目を瞑った。
「そんなには仲よくなかったし」
「仲よかったやし。いつも一緒だっただろ」
ふたつ年上の兄は、武徳よりも鮮明に子供時代を記憶しているらしかった。武徳には釈然としない思いしかなかった。友達だったのは確かだが、兄がいうほど親しかったのだろうか。記憶は曖昧で、なにをして遊んだのか、どんな場所に行ったのかなど、具体的なことはなにも思い出せなかった。
周囲の風景を観察して、自分が夢を見ているのだとわかった。気がつくと、ふだん生活している家ではない、他人の家にいた。いつの間にか眠ってしまったのだと、不思議なほど冷静な頭で考えた。
夢のなかの武徳は、15歳ではなく、10歳の小学生だった。畳の上に直接敷かれた布団に寝転がっている。部屋にはエアコンがなく、扇風機が左右に首を回しながら風をつくっていた。肌にまとわりつく生ぬるい空気までもが、リアルに感じられた。
武徳は兄のお下がりのズボンを履いていた。白いタンクトップは汗で腹に貼りついていた。仰向けになって、漫画を読んでいる。その横で、裕太が膝を立ててテレビを見ていた。裕太の住んでいるアパートだと、自分を俯瞰するもうひとりの武徳は思った。
ふたりが他愛のない会話をしていると、突然ドアが開いた。裕太の父親が帰ってきたのだ。朝まで飲んでいたらしく、全身からきついアルコール臭を漂わせている。女性用とすぐにわかる香水の匂いもした。どこかのスナックで飲んできたのだろう。裕太の父は上機嫌だった。
裕太がなにかいった。子ども心に父の軽薄さに嫌悪をおぼえ、詰ったのかもしれない。父親は鼻で笑い、裕太の頭を叩いた。酔いのせいで、加減ができなかった。大きな音がして、裕太はその場に倒れこんだ。
うずくまった裕太の背中を父親が蹴る。表情には怒気はない。むしろ、笑みさえ浮かんでいた。怒っているのではなく、ふざけているのだ。
武徳は止めようとしてしがみついたが、あっけなく抑えこまれた。スポーツをしているとはいえ、小学生がおとなの男の力に適うはずがなかった。
父親の悪ふざけはそれだけにとどまらなかった。実の子供とその友達を正座させ、呂律の回らない口でなにごとかしゃべっている。おそらく、子供にはわからない性的な欲求やその結果についてだろう。しゃべり終えると、なにか思いついたかのように、身を屈めた。
裕太の父親は、裕太と武徳に脱衣を命じた。そして互いの体を愛撫させた。拒否すると頭を叩かれたり、背中を蹴られたりした。嫌がる裕太の頭を抑えつけ、武徳のまだじゅうぶんに成長していない生殖器官を口に含ませた。
裕太と武徳はふたりとも恐怖に怯えた。烈しく泣くと、父親はうんざりして手を離した。つまらないと舌打ちして、家を出て行った。
行きすぎた悪戯だった。その後離婚して、息子と離れた父親はおぼえてもいないだろう。武徳も、裕太と距離を置き、ほかの友達と遊ぶようになって、無意識に記憶そのものを頭から取り除いてしまった。裕太はどうだっただろうか。それほどつよい少年だったか。
武徳には裕太以外にも友達がたくさんいた。転校する日には、一日中クラスメイトたちに囲まれていた。涙を流す女子もいた。その輪からすこし離れたところで、裕太が武徳を見ていた。声をかけることはなく、ただじっと見つめつづけるだけだった。視線に気づいていながら、武徳は無視した。裕太の存在を意識から削り取った。