シロカネのホロケウ
前編 『狩るエタラカと吼えるウォセ』
アイツが帰ってくる、母さんを殺したアイツが。
(今日こそ仕留めてやる!)
暗い暗い洞穴の奥、まだ小さな山犬の子が岩陰に身を潜めている。体こそまだ小さいが、その目には確固たる意思が宿っていた。
(外から漏れる月光がアイツの影で途切れた瞬間が勝負だ)
いくら想いが強かろうと、相手はあのはぐれ狼エタラカだ。自然と体は震え、貧相な両手足はその構えを保つのに精一杯だった。
そして一瞬、ほんの一瞬だけ僅かに届く月明かりが途切れた刹那、岩陰から飛び出した小さな影が、狩りを終え自らの寝床に戻ってきた狼の首筋を捉えた……かに見えた。
ドスン!!
「ギャン!」
だが、コケの這う湿った岩肌に叩き付けられたのは、山犬の子ウォセの方だった。
「危ねー危ねー。俺様の非常食の分際で、姑息な真似をするじゃねぇか……。でもよ、今日のはなかなかだったぜ」
「痛てて……うるさい! クソ狼!」
「発想までは良かったんだがなぁ、ああも殺気を漲らしてちゃあな。俺様じゃなくても気が付くってもんだぜ、僕ちゃんよぉ」
「次は、次こそは絶対お前を殺してやるからな!」
「わかったわかった、ピーピー言ってねえで飯にしようぜ。俺様は腹が減ってんだ。あんまりガタガタしつけえと、お前から喰っちまうぞ!」
「わかったよ、ちぇ」
エタラカは、今しがた仕留めてきた肉塊をウォセの前に咥え投げた。
*
まだ幼い山犬の子ウォセが物心付いた時には、この奇妙な共同生活はもう始まっていた。
人間が鉄砲を手にしてからというもの、獣達の棲家はどんどん森の奥へ奥へと追いやられていった。自分が強者だと信じて疑わなかったヒグマや狼など狩る側の獣達も例外ではない。
狩人に狙われ、庭のように自由に駆け回っていた狩場も今ではおちおちとは歩けなかった。例え今日は餌にありつけたとしても明日喰える保証はない。
そんな時の為に、お前を喰わせ太らせておくのだとウォセはエタラカから聞いていた。そして、エタラカはこうも付け加えた。
「お前の母親を殺して喰ったのも俺様だ。悔しいか? 悲しいか? だったら仇を討って見せろ! いつでも相手してやる。お前に殺られる俺様じゃあないがな」
ウォセにとっても、母を亡くし幼い自分が一匹だけで生き抜ける程、この森が甘くない事はわかっていた。彼の野生が言っている、今を生きる為にエタラカを利用するのだ。
辛く意に沿わない状況も今は我慢しろと自らに言い聞かせる。弱い自分を鍛え追い込み、自らが喰われてしまう前に母の仇を討つのだ……エタラカを殺すのだ……と。
ある日の午後、ウォセはいつものように狐の子ピリカと修行と言う名の追いかけっこに興じていた。
いくら山犬の子と言えど、身軽な子狐を捕まえるのは中々容易ではない。
「やいやいウォセ! お前それでも山犬かよ!今日の勝負も俺の勝ちみたいだな」
「クッソー、だいたい素早しっこ過ぎるんだよピリカは」
「手加減してちゃ修行にならないだろ? ねぇシアプカ様……シ、シアプカ様!? え、え、え、えーーー、いつの間にこちらへーーー!?」
慌てふためくピリカの傍らに、いつの間にか年老いた蝦夷鹿が立っていた。ウォセの知る蝦夷鹿の倍はあろうかという巨躯と大角、威厳に満ちた立ち姿にその場の草木や虫達ですら緊張していた。
「おいおいデッカイ鹿の爺ちゃん気をつけなよ? こんなとこに居るのエタラカに見つかったら、たちまち食べられちゃうぞ?」
「バカバカバカバカ!! 何て口の利き方すんだよ! いつもこんな辺鄙なトコに隠れてるウォセは知らないかもしんないけど、シアプカ様と言えばそれはそれは偉い、この森の語りべ様なんだよ!」
「えーーーー語りべ様だってー!?それを早く言えよピリカ!」
「失礼致しましたシアプカ様! こいつはチビでバカですが、根はとってもいい奴なんです!どうか勘弁して下さい!」
「ちぇっ、ピリカのほうがオイラよりもっとチビじゃないかぁ」
ウォセの言葉に更に慌てふためいた様子のピリカが、鼻を突き刺す勢いでウォセの頬に顔を寄せた。何やら小声で詰め寄っている。
「ウォセ君ね、どっちがチビかはこの際どうでもいいからさぁ、早いとこ君も謝ってくんないかなぁ、僕困っちゃってんだよね」
「わ、わかったよ、わかったって。そう怖い顔すんなよ……」
「フォッフォ……よいよい、今日はエタラカに会いに来たんじゃが、おらんようじゃし大人しく帰るとするわい」
「え?エタラカと知り合いなの?」
「ウォセ!!」
「エ、エタラカと……知り合いなんでございますですか?」
「フォッフォッフォ……。知り合いと言えば知り合いじゃな、この森全ての獣がワシの知り合いじゃ。ウォセ、お前のことも生まれた時からよーく知っとるぞ」
「えーほんと!?じゃあオイラの母さんの事も知ってるんですか?」
「レラか……もちろんじゃとも。そなたの母は、聡明で純粋で……まるでこの森の泉のようじゃった。そなたに伝えねばならぬ大切な事もあるがの、今はまだその時ではないようじゃ。勇健に育てよ山犬の子よ」
「ありがとうシアプカ様、いつかまた母さんの話聞かせてね……」
ピリカが叫ぶ。
「帰り道、お気をつけてー!」
「大丈夫じゃ、森の獣にワシは殺せん。ワシを殺すとすれば、人間くらいのもんかの……」
シアプカはそう言うと、森の奥へと消えていった。
「あーービックリした! 語りべ様なんて、オイラ初めて会ったよ」
「ビックリしたのはこっちだっつうの! ウォセ、お前ちょっと話し方を知らなすぎるぞ。 まぁ一緒にいるのがあのエタラカさんじゃー無理ないかもしれないけどさ」
「そうかなぁ、オイラそんなに変わってるか?」
「自分で気がついてないようじゃあ、よっぽど重症ってことだね」
「言ったなピリカ!!」
〈ガサガサ……〉
(!?)
その時、ウォセの背後の茂みから草木を掻き分けるような音がした。とたん、ピリカの顔が青褪める……。
「どうしたんだよピリカ、そんなおっかない顔して? またシアプカ様か?まだ何か御用で……す……か」
振り返ったウォセの眼前には、生涯で初めて見たであろうヒグマが立っていた。それもただのヒグマではない、体長三メートルに届こうかという隻眼の巨熊であった。
「グウォフー、グウォフー……フー!!」
「ピ、ピリカ?」
「う、動くなウォセ!こいつの名はアムルイ、人間どもは神なんて崇めちゃいるけど……この森の……悪魔だよ」
小さな二匹は、恐怖でとてもその場を動けない。例え動けたとしても、その瞬間たちまち巨大な爪で体を引き裂かれてしまうだろう。
「フン!わざわざ匂いのする方へ来てみりゃあ、こんなガキどもしかいねぇじゃねえかクソったれが。まぁいい、今日は朝から何も喰ってねえんだ」
「お、おいアムルイ! 俺達なんか食べても、ちっとも腹なんか、ふ、膨れないぞ!」